万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

多様性の尊重とデジタル化の単一性

2023年08月10日 11時55分41秒 | その他
 グローバリズムが全世界を覆うのと軌と一にして、一つの‘呪文’が唱えられることとなりました。それは、‘多様性の尊重’というものです。全世界には様々な人種、民族、宗教、慣習などがあるのだから、お互いに違いを認め合い、尊重し合おうというものです。人種等の違いに基づく差別や偏見は道徳や倫理に反する行為ともされてきましたし、多様性はイノヴェーションの源ともされますので、同呪文の威力は凄まじく、あらゆる諸国の経済や社会に広く深く浸透していったのです。

 企業や教育機関などでも‘多様性の尊重’が採用や入学の選考基準ともなり、異質性に価値が置かれることともなったのですが、今日、多様性の尊重とは、グローバリズムの本質を隠すための煙幕的なスローガンであった疑いは深まる一方です。そもそも、グローバリズム以前の時代の方が、世界は遥かに多様性に富んでいたことは言うまでもありません。100年前には、それぞれの国や地域にあって、それ固有の歴史の中で培われた伝統的な街や農村の風景が広がっており、民族衣装の姿で日常の生活を送る人々も稀ではありませんでした。今では、全世界のどこの都市を訪れても変わり映えがなく、農村でさえチェーン店が道路沿いに軒を並べています。

 グローバリズムの本質、それは単一化、あるいは、画一化なのでしょう。言葉とは裏腹に、現実には、多様性とは真逆の方向性を志向しているのです。そして、‘多様性の尊重’とは、単一化に至る過程に必要とされるミクシングのための‘呪文’であり(オムレツを作るためには予め卵を割って黄身や白身等を均一にかき混ぜなければならない・・・)、固有の文化や伝統等を背負う人々を一端ばらばらにして一つの坩堝に混ぜ込むには好都合であったのかもしれません。同言葉が内包する矛盾、あるいは、二重思考を熟知した上での戦略的な洗脳手段としても推測されるのです。

 それでは、グローバリズムの呪文が解けるときは訪れるのでしょうか。その時とは、案外、‘今’であるかもしれません。何故ならば、グローバリスト、即ち、世界権力が推進してきたデジタル化が普及すればするほどに、‘多様性の尊重’が上手に隠してきた画一化という‘真の顔’を、表面に浮かび上がらせてしまうからです。例えば、昨今、関心を集めている生成AIの先駆的モデルであるチャットGPTを見ましても、複数の回答が提示されていたとしても、その内容はほとんど同一です。入力データとアルゴリズムが同じであれば、同じ質問には同じ回答が返ってくるのです。質問に使用する言語が違っていても、内容が同一であれば、回答も言語が違うだけに過ぎないことでしょう。

 果たして人類は、今後とも未来に向けてデジタル化を伴う画一化の一本道を歩かされるのでしょうか。未来は未定ですので、人類が歴史において育んできた文化・文明の豊かさという意味での多様性が尊重される別の道もあり得るのではないかと思うのです。


*亡き母を偲んで

 母が身罷ってから、早、10日が経ちました。ブログ記事の更新をお休みいたしまして、誠に申し訳ありませんでした。悲しみが癒えぬ日々ではありますが、本日より、ブログを再開いたしたく存じます。

 今日では共働きが標準的な家庭モデルとなった感がありますが、亡き母は、古き良き時代の家庭婦人であったと思います。学校から帰りますと、家の中にはパンやケーキの焼けるにおいがして、‘おかえりなさい!’と母が笑顔で台所からよく顔を覗かせたものです。お正月はお屠蘇から始まり、桃の節句荷にはお雛様を飾り、端午の節句には鯉のぼりを挙げ、七夕には笹の葉に願い事を書いた短冊を飾り、クリスマスにはツリーを飾って・・・、賑やかに楽しく家族で過ごした日々は、今はなつかしい思い出となりました。女性の生き方は決して一つではなく様々な幸せのありかたがある、と常々思うのも、自らの子供時代の溌剌とした母の姿があったからなのかもしれません。亡き母もまた、自らの人生を振り返って幸せであったと申しておりました。

 長じても、学究肌で一風変わり者でもあった父、並びに、私たち姉妹を支えていたのも社交上手な母でした。不治の病に蝕まれ、自らの命が消えゆくことを覚悟した時期に、私は、母の耳元で‘ベランダで残しておいてもらいたいお花はある?’とそっと尋ねたところ、母は、迷わずに夏水仙と応えておりました。毎日が危篤のような状態にありながら、少しばかり持ち直しますと、不思議なことに、既に一ヶ月ほど前に咲き終えたはずの夏水仙が一本、すっと長い茎を伸ばして花を咲かせたのです。息を引き取った翌日の朝にベランダを見ますと、夏水仙は頭を垂れて萎れておりました。一本だけ咲いた夏水仙が母の姿と重なり、涙が止まらなかったのです。その後、葬儀を終えた翌朝になりましてベランダに出ますと、驚くことに夏水仙の花がたくさん咲いているのです。亡き母が、悲しみに打ちひしがれている私たちを、夏水仙に託して励ましてくれたように思えてなりません。毎年、夏水仙が咲く頃には、やさしかった母を思い出すことでしょう。

 母君の かたみとなりし 夏水仙 あしたの庭に たおやかに咲く

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