世界平和統一家庭連合(旧統一教会)は、日本国の隷従化を公言して憚らない韓国系新興宗教団体である上に、教祖独裁とも言うべき神政政治を目指していただけに、同教団と密接な関係を築いてきた自民党は、目下、保守政党としてのイメージ崩壊という危機に直面しています。しかも、新興宗教団体による政治介入の問題は、連立を組む公明党にも波及しており、政界全体に対する国民の政治不信を決定的なものとしています。国民から湧き上がる真相究明を求める声に対して、自民党は、政治家個人の問題、あるいは、霊感商法や献金などの反社会的活動の問題に矮小化しようとしていますが、同党の弁明の通り、組織全体としての影響は全く受けていないのでしょうか。
この問題を考えるに当たって、注目されるのは自民党の憲法改正案です。同案は平成24年4月27日に「日本国憲法改正草案」として公表されています。憲法改正に際して、同等は、現行の憲法を下敷きにしながらも全文を書き換えるという方式を採用しており、実際に、自民党の改正箇所は、前文から補足を定める第11章にまで及んでいます。憲法というものは、国家体制そのものを定める最高法規である以上、全文改正とは、それが如何に微少であれ、国家体制の変更という意味合いを持ちます。このことから、自民党案には日本国の国家体制を変えようとする強い‘意思’が窺えるのです。
例えば、改正案の前文にあって「天皇を戴く国家」という表現が見られることに加え、その第一条では、天皇を元首として位置づけています。さらに、第102条では、その第1項で国民の憲法尊重擁護義務を明記する一方、第2項では天皇をその義務の主体から外しています。第102条については、自民党は、「日本国憲法改正案Q&A(増補版)」において「政治的権能を有しない天皇及び摂政に憲法擁護義務を課すことはできない」と説明していますが、憲法は政治的権能のみについて記しているわけではありませんので、同党の説明で納得する国民は多くはないことでしょう。
そして、天皇が‘国民ではない’とすれば(同問題については見解が分かれている・・・)、天皇は、憲法によって憲法を遵守する義務から免除された特別の存在となります。近年、自公連立政権下にあっては、安部元首相の国葬をはじめとして、憲法や法律に根拠がないからこそ、超法規的な決定が行われる事例が目立つようになりましたが、悪しき反対解釈が蔓延れば、憲法を遵守する義務がないのですから、天皇が憲法において禁じられている政治的権能をその権威において行使する可能性も否定はできなくなります。
‘不可侵’な存在として君主を法の枠外に置く形態は、プロシア憲法などかつての立憲君主制の国の憲法にしばしば見られるのですが、自民党の目指す国家像とは、国民から超越した頂点において天皇が君臨する戦前の明治憲法下の体制に逆戻りしているようにも思えます。国体というものが、天皇と日本国とを一体化した国家体制を意味するならば、日本国は、‘天皇の国’ということになりましょう(森元首相も、「日本は天皇中心の神の国」と発言・・・)。
戦前であるならば、あるいは、自民党の国家間に対して賛意を示す国民も少なくなかったかもしれません。神武天皇を初代とする皇統の万世一系が固く信じられ、天皇は、現人神とされていたのですから。しかしながら、今日にあっては、皇統の継続性に関する懐疑論に加え、民間から皇妃を迎えるのが一般化するにつれ、血統における皇族と一般国民との違いは急速に薄らいでいます。天皇については、地位と血統との乖離が生じており、伝統に根ざした国民的な信仰の対象とは言い難くなっているのです。むしろ、メディアの報道ぶりからしますと、北朝鮮をも彷彿させるパーソナル・カルト化が懸念される状況にありましょう。
こうした天皇や皇族を取り巻く今日的な状況に鑑みますと、天皇並びに皇族のパーソナル・カルト化は、世界平和統一家庭連合との接点としても理解することもできます。何と申しましても、同教団の教祖である文鮮明氏は、「日本の天皇と韓国の王とが交差結婚をしなければならない。」「日本の皇室と(文教祖の)孫たちが結婚する時が来て、すべての国の王権の代表者たちと結婚する時代に入る。」とも述べているのですから。
憲法改正を改正することによって自民党が描く日本国の未来像は、世界平和統一家庭連合の文鮮明の子孫による日本国支配というカルト国家構想とそれほどには離れてはいないかもしれません。そして、この両者の近似性は、背後に姿を隠している超国家権力体の世界支配構想においてこそ説明されるように思えるのです。