今回は東大寺の大仏さんと並んで奈良市を代表する
法相宗大本山・興福寺のお話をさせて貰いまひょ。
興福寺は都が平城京に遷都された710年(和同3年)
藤原不比等が飛鳥から移設して創建したお寺だっせ。
元は大津京にあった山階寺が飛鳥に移されたものだとか。
藤原鎌足の妻・鏡女王が夫の病気全快を願って
大津京に造ったお寺だったとされてまんねん。
別名で現在も山階寺と呼ばれることがあるんだって。
(興福寺 東金堂=とうこんどう) (重要文化財)
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(興福寺 五重塔 & 東金堂)
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現在の興福寺は奈良公園の中にお寺が立っている。
その境界も不明で歩いてたら興福寺に入ってしまった。
そんな印象を受ける観光客が多いかもしれまへん。
(興福寺 本坊)
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興福寺は藤原氏の氏寺としてスタートしましたが
平安時代には摂関家の子弟が送り込まれる
平安貴族にとっては重要なお寺でしたんや。
鎌倉・室町時代には守護が大和の国(現在の奈良県)には
設置できず、興福寺が大和一国を支配してたんですわ。
強大な武力を持つ宗教軍団でもあった訳でんな。
藤原一族の寄付と荘園を多く持つ特権階級でもあった。
藤原一族である京都の高級貴族の支援を受けて
6度にわたる被災にも再建を繰り返してきました。
(春日大社 本殿)
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そして中世以降は藤原氏の氏神である春日大社も
興福寺と一体となって、時には京都の朝廷や
政府を悩ますような強訴を繰り返したこともおます。
なにせ春日大社のご神木を持ち込まれたら京都の
貴族は恐れおののいて、何もできなかったとか。
そりゃ~ ご先祖様を祀るお寺と氏神様ですわな。
(興福寺付近の 地図)
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時代が下がって江戸時代になっても興福寺の寺領は
約1万5千石を保有し、塔頭である一条院が約1500石
同じく大乗院が914石合わせると小大名級の領地を持ち
大和の国では大きな影響力をもつ宗教団体だったようでっせ。
東大寺が江戸時代には寺領2200石で法隆寺が1000石
比べて見ても興福寺の、ずば抜けて大きいことがわかりまっしゃろ。
興福寺は前回にもお話したように1180年(治承4年)の
平氏による「南都焼き討ち」では全ての堂塔が焼けてますんや。
その後も鎌倉時代の1327年(嘉歴2年)及び江戸時代の
1717年(享保2年)に興福寺の大火が記録されてまぁ。
再建は縮小されながらも明治維新を迎えるまでは
それなりに立派な寺院として存在してましたんや。
(春日大社の 二の鳥居)
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1868年(慶応4年・明治元年)3月13日に新政府は
「神仏分離令」なるものを布告したんでっせ。
江戸時代までお寺と神社は一体となる「神仏習合」が普通で
この興福寺もその代表的な形態を維持していたんですわ。
神社では僧侶が神前でお経をあげるというのが普通だった。
この布告により神官を兼務する僧侶に対して還俗が命じられ。
興福寺の僧侶は一夜にして春日大社の「新神官」に変身させられ
仏具や仏像は神社から撤去せよとの、お達しがあったんだって。
そして1871年(明治4年)に寺領上知令(じょうちれい)が
太政官布告で発せられ、境内と堂塔の敷地以外は全てお上に
没収されることになり全国のお寺は大きな被害を受けましたんや。
九州地方には現在も大寺院がないとの説も聞こえてきますけど。
(奈良公園 元は興福寺の敷地)
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(若草山 ここも元は興福寺の領地)
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1870年(明治3年)から翌年1871年(明治4年)にかけ
全国で「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が起きたんだそうです。
廃仏毀釈とは = 仏教を廃止して、お釈迦さま(仏像)を壊す
明治政府は仏教を神道と区別して分離することを宣言しただけなのに
一部の国家神道を重んじる宗教家の扇動もあって、全国のお寺で
仏像・仏具・絵巻物などを破壊する動きが盛り上がったんだって。
この廃仏毀釈に、奈良県の初代県令であった四条隆平(たかとし)が
熱烈な廃仏家だった為に、興福寺が目の敵にされたわけでんがな。
元は藤原一族で京都の公家さんなのに頭を傾げたくなりませ。
(猿沢の池 & 興福寺五重塔)
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猿沢の池の北側には興福寺の土塀が有ったんですが通行の邪魔で
無用の長物と称して全てを取り壊してしまったそうですわ。
それまでは興福寺の周囲は土塀で囲われていたんでっせ。
これが今日の興福寺が奈良公園との境界が不明な原因でっかな。
(国宝 興福寺五重塔)
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四条隆平(たかとし)は興福寺を廃寺にすると共に。
五重塔の上部から綱を掛けて万力で引き倒すように命令したとか。
でも五重塔は人間の力では引き倒せなかったんだそうですわ。
そこで5円とか25円とも言われる値段で払い下げて、入札者が
五重塔を焼いてから金具類を回収しようと考えたそうでんな。
所が奈良の町民が飛び火を恐れて火を付けることを止めるように
県庁に申し込んで一時的に保留と成ったんだそうですわ。
その内に県令の四条隆平が転勤となり自然消滅で五重塔は
取り壊されずに、現在の姿を残すことになったんだって。
すんでの処で、奈良のシンボルである興福寺の五重塔は
この世から消えてなくなる運命にあったんでんな。
(奈良公園の 鹿)
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奈良県令の四条隆平は「春日大社の神鹿」と言われてきた鹿を
有害動物として射殺することも許可、全てを奈良公園の一角に集めて
鹿が38頭にまで激減する事態になったと記録があるんだって。
餌を与えないので鹿が大量に餓死したと言われてますんや。
四条隆平の廃仏毀釈は奈良全県に及び中世からの大寺院だった
天理市の内山永久寺は現在では池の一部を残して消滅してますんや。
興福寺も廃寺となって無人の寺となり重要な仏像や文化財が
二束三文で流出したり壊されてしまったようでんな。
現在でも元興福寺にあった仏像が特別展示で奈良へ里帰りした
そんな説明書きを博物館で目にすることが多いんですわ。
(元 大乗院門跡跡)
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ここは興福寺の門跡寺院であった大乗院が在った場所でっせ。
ここも四条隆平(たかとし)によって興福寺から取り上げられ
現在は奈良ホテルと一部が公園にされてますんや。
大乗院は摂関家の九条家の子弟が門跡になるお寺でしたんや。
一条院も摂関家の近衛家の子弟が門跡になるお寺でしたが同じく
奈良地方裁判所になり戦後に唐招提寺の御影堂として移設されたとか。
もし四条隆平が明治の初期に県令として赴任してなければ
奈良県のお寺には、もっと多くの国宝級の文化財が有ったでしょうな。
現在でも奈良県は国宝の数では日本一でっけど、日本ばかりか
海外に流失した文化財が多い事を知って欲しいと思いましたんや。
今回、鉄ちゃん爺やが興福寺を訪れたのは普段には拝観できない
「北円堂」というお堂の特別公開がおましたんで出かけたんですわ。
(興福寺の 北円堂)(国宝)
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係り員のお話によれば毎年、春と秋にのみ特別公開されるんだつて。
現在の興福寺に残る最古の建造物で「南都焼き討ち」の直後になる
1210年(承元4年)に再建されたそうで、江戸時代の大火にも
奇跡的にも焼けずに残った、八角円堂の華麗な素敵な建物でっしゃろ。
鎌倉時代の建物でっけど奈良時代の姿を良く伝えているんだって。
興福寺の西の隅にあり平城京を一望にできる位置になりますんや。
元々は平城京の推進者で有った藤原不比等の一周忌に当たって
元明太上天皇と元正天皇がお建てになった建造物なんだって。
藤原不比等の霊をなぐさめる絶好の位置だということでっかな。
(国宝 北円堂の仏像)
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写真撮影が禁止されてましたが、お堂から出る際に申し訳ないが
内緒で盗撮させていただきました、全てが国宝の仏像だそうです。
別に「南円堂」というお堂も近くにおまっせ。
ここは西国巡礼第9番札所に成っていますんで
興福寺では唯一、老若男女の多い場所になりますんや。
(興福寺の 南円堂) (重要文化財)
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江戸時代に再建されたお堂なので国宝には成ってまへんな。
でも本尊の観音菩薩像は国宝に指定されてるそうでっけど。
(再建中の 興福寺の中金堂)
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興福寺の中心になる中金堂は江戸時代の享保の大火で焼失し
現在まで再建が出来ない状態が続いてたようでんな。
平城京遷都1300年の事業として興福寺の中金堂を再建する
工事が今も続いているそうで、完成は平成30年だとのこと。
(猿沢の池)
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(猿沢の池と五重塔を背景に撮影)
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この興福寺の五重塔を背景にした猿沢の池は
奈良を代表する風景だといわれてますんや。
一人だけ邪魔な年寄りが写ってますので艶消しかな?
(猿沢の池と 興福寺の五重塔)
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こちらの方がやっぱり絵になる奈良の風景でっしゃろな。
それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。
ほな~ さいなら~♪
法相宗大本山・興福寺のお話をさせて貰いまひょ。
興福寺は都が平城京に遷都された710年(和同3年)
藤原不比等が飛鳥から移設して創建したお寺だっせ。
元は大津京にあった山階寺が飛鳥に移されたものだとか。
藤原鎌足の妻・鏡女王が夫の病気全快を願って
大津京に造ったお寺だったとされてまんねん。
別名で現在も山階寺と呼ばれることがあるんだって。
(興福寺 東金堂=とうこんどう) (重要文化財)
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(興福寺 五重塔 & 東金堂)
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現在の興福寺は奈良公園の中にお寺が立っている。
その境界も不明で歩いてたら興福寺に入ってしまった。
そんな印象を受ける観光客が多いかもしれまへん。
(興福寺 本坊)
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興福寺は藤原氏の氏寺としてスタートしましたが
平安時代には摂関家の子弟が送り込まれる
平安貴族にとっては重要なお寺でしたんや。
鎌倉・室町時代には守護が大和の国(現在の奈良県)には
設置できず、興福寺が大和一国を支配してたんですわ。
強大な武力を持つ宗教軍団でもあった訳でんな。
藤原一族の寄付と荘園を多く持つ特権階級でもあった。
藤原一族である京都の高級貴族の支援を受けて
6度にわたる被災にも再建を繰り返してきました。
(春日大社 本殿)
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そして中世以降は藤原氏の氏神である春日大社も
興福寺と一体となって、時には京都の朝廷や
政府を悩ますような強訴を繰り返したこともおます。
なにせ春日大社のご神木を持ち込まれたら京都の
貴族は恐れおののいて、何もできなかったとか。
そりゃ~ ご先祖様を祀るお寺と氏神様ですわな。
(興福寺付近の 地図)
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時代が下がって江戸時代になっても興福寺の寺領は
約1万5千石を保有し、塔頭である一条院が約1500石
同じく大乗院が914石合わせると小大名級の領地を持ち
大和の国では大きな影響力をもつ宗教団体だったようでっせ。
東大寺が江戸時代には寺領2200石で法隆寺が1000石
比べて見ても興福寺の、ずば抜けて大きいことがわかりまっしゃろ。
興福寺は前回にもお話したように1180年(治承4年)の
平氏による「南都焼き討ち」では全ての堂塔が焼けてますんや。
その後も鎌倉時代の1327年(嘉歴2年)及び江戸時代の
1717年(享保2年)に興福寺の大火が記録されてまぁ。
再建は縮小されながらも明治維新を迎えるまでは
それなりに立派な寺院として存在してましたんや。
(春日大社の 二の鳥居)
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1868年(慶応4年・明治元年)3月13日に新政府は
「神仏分離令」なるものを布告したんでっせ。
江戸時代までお寺と神社は一体となる「神仏習合」が普通で
この興福寺もその代表的な形態を維持していたんですわ。
神社では僧侶が神前でお経をあげるというのが普通だった。
この布告により神官を兼務する僧侶に対して還俗が命じられ。
興福寺の僧侶は一夜にして春日大社の「新神官」に変身させられ
仏具や仏像は神社から撤去せよとの、お達しがあったんだって。
そして1871年(明治4年)に寺領上知令(じょうちれい)が
太政官布告で発せられ、境内と堂塔の敷地以外は全てお上に
没収されることになり全国のお寺は大きな被害を受けましたんや。
九州地方には現在も大寺院がないとの説も聞こえてきますけど。
(奈良公園 元は興福寺の敷地)
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(若草山 ここも元は興福寺の領地)
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1870年(明治3年)から翌年1871年(明治4年)にかけ
全国で「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が起きたんだそうです。
廃仏毀釈とは = 仏教を廃止して、お釈迦さま(仏像)を壊す
明治政府は仏教を神道と区別して分離することを宣言しただけなのに
一部の国家神道を重んじる宗教家の扇動もあって、全国のお寺で
仏像・仏具・絵巻物などを破壊する動きが盛り上がったんだって。
この廃仏毀釈に、奈良県の初代県令であった四条隆平(たかとし)が
熱烈な廃仏家だった為に、興福寺が目の敵にされたわけでんがな。
元は藤原一族で京都の公家さんなのに頭を傾げたくなりませ。
(猿沢の池 & 興福寺五重塔)
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猿沢の池の北側には興福寺の土塀が有ったんですが通行の邪魔で
無用の長物と称して全てを取り壊してしまったそうですわ。
それまでは興福寺の周囲は土塀で囲われていたんでっせ。
これが今日の興福寺が奈良公園との境界が不明な原因でっかな。
(国宝 興福寺五重塔)
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四条隆平(たかとし)は興福寺を廃寺にすると共に。
五重塔の上部から綱を掛けて万力で引き倒すように命令したとか。
でも五重塔は人間の力では引き倒せなかったんだそうですわ。
そこで5円とか25円とも言われる値段で払い下げて、入札者が
五重塔を焼いてから金具類を回収しようと考えたそうでんな。
所が奈良の町民が飛び火を恐れて火を付けることを止めるように
県庁に申し込んで一時的に保留と成ったんだそうですわ。
その内に県令の四条隆平が転勤となり自然消滅で五重塔は
取り壊されずに、現在の姿を残すことになったんだって。
すんでの処で、奈良のシンボルである興福寺の五重塔は
この世から消えてなくなる運命にあったんでんな。
(奈良公園の 鹿)
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奈良県令の四条隆平は「春日大社の神鹿」と言われてきた鹿を
有害動物として射殺することも許可、全てを奈良公園の一角に集めて
鹿が38頭にまで激減する事態になったと記録があるんだって。
餌を与えないので鹿が大量に餓死したと言われてますんや。
四条隆平の廃仏毀釈は奈良全県に及び中世からの大寺院だった
天理市の内山永久寺は現在では池の一部を残して消滅してますんや。
興福寺も廃寺となって無人の寺となり重要な仏像や文化財が
二束三文で流出したり壊されてしまったようでんな。
現在でも元興福寺にあった仏像が特別展示で奈良へ里帰りした
そんな説明書きを博物館で目にすることが多いんですわ。
(元 大乗院門跡跡)
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ここは興福寺の門跡寺院であった大乗院が在った場所でっせ。
ここも四条隆平(たかとし)によって興福寺から取り上げられ
現在は奈良ホテルと一部が公園にされてますんや。
大乗院は摂関家の九条家の子弟が門跡になるお寺でしたんや。
一条院も摂関家の近衛家の子弟が門跡になるお寺でしたが同じく
奈良地方裁判所になり戦後に唐招提寺の御影堂として移設されたとか。
もし四条隆平が明治の初期に県令として赴任してなければ
奈良県のお寺には、もっと多くの国宝級の文化財が有ったでしょうな。
現在でも奈良県は国宝の数では日本一でっけど、日本ばかりか
海外に流失した文化財が多い事を知って欲しいと思いましたんや。
今回、鉄ちゃん爺やが興福寺を訪れたのは普段には拝観できない
「北円堂」というお堂の特別公開がおましたんで出かけたんですわ。
(興福寺の 北円堂)(国宝)
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係り員のお話によれば毎年、春と秋にのみ特別公開されるんだつて。
現在の興福寺に残る最古の建造物で「南都焼き討ち」の直後になる
1210年(承元4年)に再建されたそうで、江戸時代の大火にも
奇跡的にも焼けずに残った、八角円堂の華麗な素敵な建物でっしゃろ。
鎌倉時代の建物でっけど奈良時代の姿を良く伝えているんだって。
興福寺の西の隅にあり平城京を一望にできる位置になりますんや。
元々は平城京の推進者で有った藤原不比等の一周忌に当たって
元明太上天皇と元正天皇がお建てになった建造物なんだって。
藤原不比等の霊をなぐさめる絶好の位置だということでっかな。
(国宝 北円堂の仏像)
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写真撮影が禁止されてましたが、お堂から出る際に申し訳ないが
内緒で盗撮させていただきました、全てが国宝の仏像だそうです。
別に「南円堂」というお堂も近くにおまっせ。
ここは西国巡礼第9番札所に成っていますんで
興福寺では唯一、老若男女の多い場所になりますんや。
(興福寺の 南円堂) (重要文化財)
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江戸時代に再建されたお堂なので国宝には成ってまへんな。
でも本尊の観音菩薩像は国宝に指定されてるそうでっけど。
(再建中の 興福寺の中金堂)
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興福寺の中心になる中金堂は江戸時代の享保の大火で焼失し
現在まで再建が出来ない状態が続いてたようでんな。
平城京遷都1300年の事業として興福寺の中金堂を再建する
工事が今も続いているそうで、完成は平成30年だとのこと。
(猿沢の池)
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(猿沢の池と五重塔を背景に撮影)
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この興福寺の五重塔を背景にした猿沢の池は
奈良を代表する風景だといわれてますんや。
一人だけ邪魔な年寄りが写ってますので艶消しかな?
(猿沢の池と 興福寺の五重塔)
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こちらの方がやっぱり絵になる奈良の風景でっしゃろな。
それじゃ~ 今日はこれでお仕舞にしまひょ。
ほな~ さいなら~♪