道明寺の東側には一級河川の石川が流れ
約2kmほど下流で奈良盆地から流れてきた
大和川に合流して現在は西へ流れてますんや。
ここ藤井寺市道明寺と対岸の柏原市を結ぶ
玉手橋は戦前から架かる吊り橋なんですわ。
鉄ちゃん爺やが小学校5年生に遠足で対岸の
玉手山遊園地に行くため渡った記憶がおます。
外観は当時とほとんど変わりがない様でっせ。
(登録有形文化財 玉手橋=たまてばし)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/e9/2c4e8ccd84e6f8442d6bf4aaa597c8af.jpg)
(登録有形文化財 玉手橋 道明寺側)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/6f/c6d7655ddedc928fb199b051a1e9ed6f.jpg)
(登録有形文化財を示す 玉手橋の銘板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/44/64e5621dd7e43ab3021f7c57eb99af2a.jpg)
1928年(昭和3年)に当時の大阪鉄道が
対岸にある玉手山遊園地と道明寺駅を結ぶ
連絡の橋として造られて現在に至るんだって。
現在は自転車と歩行者のみが通行可能ですわ。
(登録文化財 玉手橋の遠景)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/e6/28dba2e8b987628c3682d2ea0fa82dbf.jpg)
(登録文化財 玉手橋の 中央支柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/eb/2c4e74f095e96f4efe1e8422a1ff74ef.jpg)
(登録文化財 玉手橋 中間地点)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e6/62fa1c928c6cb84620c0c7b7c4ae424a.jpg)
2001年(平成13年)日本の吊り橋としては
初めて登録有形文化財に認定されたんだって。
地元でもあまり知られて居ないかもしれまへんな。
(近畿日本鉄道・南大阪線 道明寺駅を望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ac/4053e2d42435107b0d36527f9dc3333a.jpg)
(6000系 近畿日本鉄道 通勤型車両)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/ea/fceb7c6015d55e99f2849fb487c7a8a4.jpg)
この道明寺駅の側に最近になって顕彰碑が完成。
この石碑の文字は道明寺の山主 六條照瑞さま。
(大阪夏の陣 道明寺合戦記念碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/f1/085ed12557e915697556932bdd6ab632.jpg)
(漢文で彫られた 説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b6/0078cc96096bd378bf980ea341ba0ea0.jpg)
(現代文に翻訳された 碑文)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/c5/179bf48de2bfc9bf3448103348dd7520.jpg)
大坂夏の陣400年を記念して平成26年11月に
古戦場の跡である道明寺駅前に設置されたんですわ。
大坂夏の陣は1615年(慶長20年)旧暦5月でした。
それではもう一度、石川へ戻りまひょ。
(一級河川 石川の流れ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/44/3b97dbc6c6a2e481fbb635f4f3cbfefb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/e2/9f8304e6f71de80261b113c553ff5b4f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/56/77373e4b17f99cc9d8a21b5aab925f47.jpg)
石川の向こう側は小高い山になってますんや。
現在は玉手山と呼んでますが平成になって
遊園地は閉鎖されて訪れる人もまばらでしょうな。
大坂夏の陣の頃は「小松山」と呼んでいたとのこと。
(古戦場の小松山を 対岸から撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/44/b46ba0f675a52e23fada8ac489c20f98.jpg)
豊臣方の後藤又兵衛基次は5月6日未明に小松山に
陣を張り、下を通り奈良街道を進んでくる徳川方の
大和路部隊(約3万5千)を迎え撃とうと考えたとか。
本来は真田右衛門佐信繁や毛利豊前守勝永の三軍で
小松山周辺を押さえる予定であったが霧に悩まされ
真田軍や毛利軍が遅延したために単独で前進したとも。
後藤又兵衛基次ら約2800名は小松山の高さを利用し
奮戦し徳川方の奥田忠次などを打ち取ったものの
徳川方の大群に囲まれて石川にお押し返されたらしい。
負傷した後藤又兵衛基次は部下に命じて自刃して首を
深田に埋めさせたと伝えられてますんや。
(古戦場 小松山をズームアップ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/ce/ea4a885d8ceef3e968be87222a81be9c.jpg)
小松山を攻め落とした徳川軍は石川を渡って道明寺村へ。
ここでも豊臣方の薄田隼人を戦死させて「誉田の森」を
通過して大坂の平野郷へ向かおうとしたようですわ。
「誉田の森」=こんだのもりと呼ばれたそうですわ。
(誉田の森を 石川の堤防から望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b8/dfa22e6695238c8307a3f95403c8943a.jpg)
当時は「誉田の森」と記されてますが実際は応神天皇陵。
この応神天皇陵は面積では堺市にある仁徳天皇陵に次ぐ
世界第二位の規模になる巨大な古墳なんですよ。
しかも体積では仁徳天皇量陵を上回り世界最大なんですわ。
(応神天皇陵 正面から撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b5/319fd0e6c93946e825577de6871adb41.jpg)
(宮内庁 古市陵墓監区 事務所)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/d4/678a4523bb10e9b66da6eda125c9145c.jpg)
この辺りには大小合わせて120基ぐらいの古墳があり
その内で大きな約30基が宮内庁の管理陵墓になってまぁ。
百舌鳥古墳群と並び古市古墳群は今年から国の暫定ながら
世界文化遺産に登録を目指すようになったようですわ。
この「誉田の森」を挟んで北側に豊臣方の毛利勝永軍と
南側に真田信繁(幸村)軍がやつと到着したそうです。
合わせて約1万近い豊臣軍が加わったことになりまぁ。
体制を整えた真田信繁(幸村)軍は「誉田の森」の
微高地を利用して、伊達政宗軍の先鋒を務める
片倉小十郎部隊に発砲して大損害を与えたそうです。
この為に大坂城へ一気に攻め込むとの作戦が頓挫し
大和路部隊約3万5千は前進を中止したとのこと。
(誉田八幡宮 拝殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/fe/058c1ddccac901569e8bad364b4e83b1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/b1/2e3091312523b67253b333df88a5c731.jpg)
(誉田八幡宮 拝殿の説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/08/535f461c94246e35c537ba7e68fe6fae.jpg)
この拝殿は豊臣秀頼の命で片桐且元が再建中に
大坂夏の陣が起こって中止になったと記されてまんな。
後に徳川家光公により再建が完成したそうですわ。
(国宝 誉田八幡宮のお神輿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/39/249eff4d6757fa0c7e94121fae4764bb.jpg)
源頼朝が寄進したと記されている国宝のお神輿です。
頼朝公のご先祖はこの辺りに住んでいた石川源氏の本流
源頼信・源頼義・源義家の親子三代ゆかりの地でっせ。
(誉田八幡宮 放生橋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/f0/c391b222b4126e9f199897c5863966e9.jpg)
(誉田八幡宮 放生橋 説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/c6/944fbce158e0d594550105104bbaace7.jpg)
毎年9月15日の大祭にのみ、お神輿は氏子に担がれて
放生橋を渡って応神天皇陵に鎮座することになってまぁ。
普段は放生橋を渡って応神天皇陵に入る事は
何人も固く禁じられているんですよ。
このお神輿を拝殿で見物できるのも毎年9月15日の
1日のみで、普段は宝物館に納められてますんや。
(真田軍 六文銭の幟)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/28/5ef847b3b924441d59d26070e6488ef1.jpg)
真田信繁(幸村)は伊達軍を撃退し石川まで押し戻したが
同じ時刻に八尾・若江方面で豊臣方が敗退した為に
大坂城へ撤退することになったんだそうですわ。
しんがりを真田信繁(幸村)が務めて撤退したが
徳川軍は大きな被害と早朝からの疲れで追撃できず
真田軍と毛利軍は悠々と引き揚げていったんだって。
翌5月7日が有名な大坂夏の陣最後の戦いでっせ。
(本多忠朝の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/77/8de1d3a970911ef8cb8ad104d6720f86.jpg)
(本多忠朝の 墓の説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/61/fac493747134282675d22e2f6238f85b.jpg)
徳川軍の最前線にいた本多忠朝は真田軍と毛利軍の
攻撃を受けて乱戦の中で戦死した方で
有名な本多忠勝さんの次男坊になりますんや。
(茶臼山古墳にて 自撮り)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/27/fb0e8ea5d5564e333d542bf0f828de6e.jpg)
(真田信繁=幸村 本陣跡の茶臼山古墳の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/00/034dd3e70bc9e4388ff9a5cb10e2d8c3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/01/6a1672fba64bbd40d06be77302136f6e.jpg)
(大坂夏の陣 最後の決戦図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/27/867b4152fe94761ebc86157de6fc1045.jpg)
真田信繁(幸村)と毛利勝永の二手に分かれて豊臣軍は
徳川家康公の本陣に突入したと言われる戦いでっせ。
徳川家康公の本陣の旗が三度まで倒されたとの伝説で
家康公は死を覚悟したとの話が残ってますよね。
でも豊臣方の奮戦もこれまで、真田信繁(幸村)は
茶臼山の北側になる神社の境内で戦死。
豊臣方は大坂城へ撤収するも夜半には落城してまぁ。
日付けが変わり1615年(慶長20年)5月8日
未明に豊臣秀頼と生母の淀殿が自刃して滅亡でおます。
(大坂夏の陣 400年の幟)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/7d/7a9f7d336405cd592ead949f954f8e0c.jpg)
本日はこれにてお仕舞にしまひょ。
次回は大阪の桜が見頃になると思いまんので
何処かへ出かけてきまひょかな。
ほんなら~ これで、さいなら~🎵
約2kmほど下流で奈良盆地から流れてきた
大和川に合流して現在は西へ流れてますんや。
ここ藤井寺市道明寺と対岸の柏原市を結ぶ
玉手橋は戦前から架かる吊り橋なんですわ。
鉄ちゃん爺やが小学校5年生に遠足で対岸の
玉手山遊園地に行くため渡った記憶がおます。
外観は当時とほとんど変わりがない様でっせ。
(登録有形文化財 玉手橋=たまてばし)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/e9/2c4e8ccd84e6f8442d6bf4aaa597c8af.jpg)
(登録有形文化財 玉手橋 道明寺側)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/6f/c6d7655ddedc928fb199b051a1e9ed6f.jpg)
(登録有形文化財を示す 玉手橋の銘板)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/44/64e5621dd7e43ab3021f7c57eb99af2a.jpg)
1928年(昭和3年)に当時の大阪鉄道が
対岸にある玉手山遊園地と道明寺駅を結ぶ
連絡の橋として造られて現在に至るんだって。
現在は自転車と歩行者のみが通行可能ですわ。
(登録文化財 玉手橋の遠景)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/e6/28dba2e8b987628c3682d2ea0fa82dbf.jpg)
(登録文化財 玉手橋の 中央支柱)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/eb/2c4e74f095e96f4efe1e8422a1ff74ef.jpg)
(登録文化財 玉手橋 中間地点)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/e6/62fa1c928c6cb84620c0c7b7c4ae424a.jpg)
2001年(平成13年)日本の吊り橋としては
初めて登録有形文化財に認定されたんだって。
地元でもあまり知られて居ないかもしれまへんな。
(近畿日本鉄道・南大阪線 道明寺駅を望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/ac/4053e2d42435107b0d36527f9dc3333a.jpg)
(6000系 近畿日本鉄道 通勤型車両)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/ea/fceb7c6015d55e99f2849fb487c7a8a4.jpg)
この道明寺駅の側に最近になって顕彰碑が完成。
この石碑の文字は道明寺の山主 六條照瑞さま。
(大阪夏の陣 道明寺合戦記念碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/f1/085ed12557e915697556932bdd6ab632.jpg)
(漢文で彫られた 説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b6/0078cc96096bd378bf980ea341ba0ea0.jpg)
(現代文に翻訳された 碑文)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/c5/179bf48de2bfc9bf3448103348dd7520.jpg)
大坂夏の陣400年を記念して平成26年11月に
古戦場の跡である道明寺駅前に設置されたんですわ。
大坂夏の陣は1615年(慶長20年)旧暦5月でした。
それではもう一度、石川へ戻りまひょ。
(一級河川 石川の流れ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/44/3b97dbc6c6a2e481fbb635f4f3cbfefb.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/e2/9f8304e6f71de80261b113c553ff5b4f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/56/77373e4b17f99cc9d8a21b5aab925f47.jpg)
石川の向こう側は小高い山になってますんや。
現在は玉手山と呼んでますが平成になって
遊園地は閉鎖されて訪れる人もまばらでしょうな。
大坂夏の陣の頃は「小松山」と呼んでいたとのこと。
(古戦場の小松山を 対岸から撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/44/b46ba0f675a52e23fada8ac489c20f98.jpg)
豊臣方の後藤又兵衛基次は5月6日未明に小松山に
陣を張り、下を通り奈良街道を進んでくる徳川方の
大和路部隊(約3万5千)を迎え撃とうと考えたとか。
本来は真田右衛門佐信繁や毛利豊前守勝永の三軍で
小松山周辺を押さえる予定であったが霧に悩まされ
真田軍や毛利軍が遅延したために単独で前進したとも。
後藤又兵衛基次ら約2800名は小松山の高さを利用し
奮戦し徳川方の奥田忠次などを打ち取ったものの
徳川方の大群に囲まれて石川にお押し返されたらしい。
負傷した後藤又兵衛基次は部下に命じて自刃して首を
深田に埋めさせたと伝えられてますんや。
(古戦場 小松山をズームアップ)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/ce/ea4a885d8ceef3e968be87222a81be9c.jpg)
小松山を攻め落とした徳川軍は石川を渡って道明寺村へ。
ここでも豊臣方の薄田隼人を戦死させて「誉田の森」を
通過して大坂の平野郷へ向かおうとしたようですわ。
「誉田の森」=こんだのもりと呼ばれたそうですわ。
(誉田の森を 石川の堤防から望む)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/b8/dfa22e6695238c8307a3f95403c8943a.jpg)
当時は「誉田の森」と記されてますが実際は応神天皇陵。
この応神天皇陵は面積では堺市にある仁徳天皇陵に次ぐ
世界第二位の規模になる巨大な古墳なんですよ。
しかも体積では仁徳天皇量陵を上回り世界最大なんですわ。
(応神天皇陵 正面から撮影)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/b5/319fd0e6c93946e825577de6871adb41.jpg)
(宮内庁 古市陵墓監区 事務所)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/d4/678a4523bb10e9b66da6eda125c9145c.jpg)
この辺りには大小合わせて120基ぐらいの古墳があり
その内で大きな約30基が宮内庁の管理陵墓になってまぁ。
百舌鳥古墳群と並び古市古墳群は今年から国の暫定ながら
世界文化遺産に登録を目指すようになったようですわ。
この「誉田の森」を挟んで北側に豊臣方の毛利勝永軍と
南側に真田信繁(幸村)軍がやつと到着したそうです。
合わせて約1万近い豊臣軍が加わったことになりまぁ。
体制を整えた真田信繁(幸村)軍は「誉田の森」の
微高地を利用して、伊達政宗軍の先鋒を務める
片倉小十郎部隊に発砲して大損害を与えたそうです。
この為に大坂城へ一気に攻め込むとの作戦が頓挫し
大和路部隊約3万5千は前進を中止したとのこと。
(誉田八幡宮 拝殿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/fe/058c1ddccac901569e8bad364b4e83b1.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/b1/2e3091312523b67253b333df88a5c731.jpg)
(誉田八幡宮 拝殿の説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/08/535f461c94246e35c537ba7e68fe6fae.jpg)
この拝殿は豊臣秀頼の命で片桐且元が再建中に
大坂夏の陣が起こって中止になったと記されてまんな。
後に徳川家光公により再建が完成したそうですわ。
(国宝 誉田八幡宮のお神輿)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/39/249eff4d6757fa0c7e94121fae4764bb.jpg)
源頼朝が寄進したと記されている国宝のお神輿です。
頼朝公のご先祖はこの辺りに住んでいた石川源氏の本流
源頼信・源頼義・源義家の親子三代ゆかりの地でっせ。
(誉田八幡宮 放生橋)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/f0/c391b222b4126e9f199897c5863966e9.jpg)
(誉田八幡宮 放生橋 説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/c6/944fbce158e0d594550105104bbaace7.jpg)
毎年9月15日の大祭にのみ、お神輿は氏子に担がれて
放生橋を渡って応神天皇陵に鎮座することになってまぁ。
普段は放生橋を渡って応神天皇陵に入る事は
何人も固く禁じられているんですよ。
このお神輿を拝殿で見物できるのも毎年9月15日の
1日のみで、普段は宝物館に納められてますんや。
(真田軍 六文銭の幟)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/28/5ef847b3b924441d59d26070e6488ef1.jpg)
真田信繁(幸村)は伊達軍を撃退し石川まで押し戻したが
同じ時刻に八尾・若江方面で豊臣方が敗退した為に
大坂城へ撤退することになったんだそうですわ。
しんがりを真田信繁(幸村)が務めて撤退したが
徳川軍は大きな被害と早朝からの疲れで追撃できず
真田軍と毛利軍は悠々と引き揚げていったんだって。
翌5月7日が有名な大坂夏の陣最後の戦いでっせ。
(本多忠朝の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/77/8de1d3a970911ef8cb8ad104d6720f86.jpg)
(本多忠朝の 墓の説明書き)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/61/fac493747134282675d22e2f6238f85b.jpg)
徳川軍の最前線にいた本多忠朝は真田軍と毛利軍の
攻撃を受けて乱戦の中で戦死した方で
有名な本多忠勝さんの次男坊になりますんや。
(茶臼山古墳にて 自撮り)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/27/fb0e8ea5d5564e333d542bf0f828de6e.jpg)
(真田信繁=幸村 本陣跡の茶臼山古墳の碑)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/00/034dd3e70bc9e4388ff9a5cb10e2d8c3.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/01/6a1672fba64bbd40d06be77302136f6e.jpg)
(大坂夏の陣 最後の決戦図)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1a/27/867b4152fe94761ebc86157de6fc1045.jpg)
真田信繁(幸村)と毛利勝永の二手に分かれて豊臣軍は
徳川家康公の本陣に突入したと言われる戦いでっせ。
徳川家康公の本陣の旗が三度まで倒されたとの伝説で
家康公は死を覚悟したとの話が残ってますよね。
でも豊臣方の奮戦もこれまで、真田信繁(幸村)は
茶臼山の北側になる神社の境内で戦死。
豊臣方は大坂城へ撤収するも夜半には落城してまぁ。
日付けが変わり1615年(慶長20年)5月8日
未明に豊臣秀頼と生母の淀殿が自刃して滅亡でおます。
(大坂夏の陣 400年の幟)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/7d/7a9f7d336405cd592ead949f954f8e0c.jpg)
本日はこれにてお仕舞にしまひょ。
次回は大阪の桜が見頃になると思いまんので
何処かへ出かけてきまひょかな。
ほんなら~ これで、さいなら~🎵