旧財閥である住友家は江戸時代から当主は代々
住友吉左衛門(すみともきちざえもん)と名乗り
現在の17代目の当主も住友吉左衛門さんでっせ。
今回は明治から大正に渡り住友財閥を率いた
15代住友吉左衛門友純(ともいと)さんのお話。
1890年(明治23年)に12代友親(ともちか)
13代友忠(ともただ)が相次いで亡くなります。
親子二代が同じ年に亡くなる存亡の危機でっしゃろ。
12代友親の妻である登久(とく)を14代目に据え
合わせて13代友忠の妹である満寿に婿養子を迎え
15代目を継いだのが住友吉左衛門友純さんでっせ。
この方は公家の徳大寺隆麿さんと呼ばれ、有名な
西園寺公望(さいおんじきんもち)の弟さんになる
名門の若君さんですが三男坊さんになりますんや。
長兄は明治天皇の侍従長を勤めた徳大寺実則さん。
今に続く社会・文化貢献を続ける住友グループの
元祖的な事業を始めたお方だと言えるかもしれまへん。
(大阪府立中之島図書館)(国の重要文化財に指定)
江戸時代から住友の事業が大阪を本拠に続けてこれた感謝の
しるしとして図書館と図書購入の資金を寄贈されましたんや。
普通ならお金だけを寄付することが多いんですが彼は
住友本社に臨時建設部を設け建物を建てて寄贈でんがな。
それが1904年(明治37年)3月のことでおます。
耐震工事を経て2015年から再度の使用が始まりました。
1922年(大正11年)には手狭になったとのことで
これも住友本社が左右に増築をして再び寄贈だって。
それにしても太っ腹なお方だなと思いまへんか。
(中之島図書館を 正面左から撮影)
鉄ちゃん爺やも学生時代には何度も訪れたもんですわ。
現在は古文書や大阪の文献やビジネス関連の書籍に特化し
それでも蔵書は約50万冊を誇る立派な図書館でおます。
現在は東大阪市に大阪府立中央図書館が新しくできまして
一般の蔵書約50万冊がそちらへ移されて昔よりは小規模に。
大阪府と大阪市の統合で図書館も集約の話がおましたけど
耐震工事をして従来通りの府立図書館で存続のようでっせ。
まあ~ 図書館は各地に沢山あっても良い話でっしゃろ。
続いては15代住友吉左衛門友純さん晩年のお話へ。
(天王寺公園から 通天閣方向を撮影)
江戸時代から住友家の本宅は大阪市の鰻谷におました。
現在の末吉橋の西南の辺り一帯だったと記録されてまぁ。
そこは長堀川に面しており東横堀川にも近い現在の建物では
三井住友銀行の事務センターが有る辺りになりまんねん。
約2400坪の敷地の東半分が銅の精錬所で西側半分が
代々の住友本家の邸宅だったそうですわ。
明治9年に銅の精錬所は他に移ったそうでっけど住友家は
その後も島之内と呼ばれる鰻谷に残ったように聞いてまぁ。
1914年(大正4年)に住友家は鰻谷を離れて天王寺の
現在は天王寺公園となっている附近に引っ越すんですわ。
処が10年も経たない内に神戸の住吉村へ移るんでっせ。
1925年(大正14年)の引っ越しだったそうでんな。
その頃、大阪市が美術館を造るべく土地を探していたが
難航して、なかなか見つからなかったようですわ。
それを聞いた住友吉左衛門友純は大阪市に美術館を造るの
条件付きなら住友家本宅跡を寄贈すると言われたとか。
同時に現在は慶沢園(けいたくえん)と呼ばれる庭園や
茶臼山を合わせて全敷地を大阪市に寄贈したんだって。
寄贈を受けた大阪市や議会の方がびっくりしたとか。
現在の地価に換算したら約35億円~50億円だっせ。
その坪数が17500坪(57750㎡)とも
12940坪(42702㎡)との二説が残ってまぁ。
その住友家本宅の跡地が現在は大阪市立美術館でおます。
(大阪市立美術館)
住友吉左衛門友純さんは本宅を含む敷地を寄贈して
その1年後にあたる1926年(大正15年)に死亡。
この美術館は昭和大恐慌や室戸台風など何度も工事が
中断しながら1936年(昭和11年)4月に完成。
設計から完成まで10年を超える難工事だったようでっせ。
(大阪市立美術館 右手から撮影)
完成した時には住友吉左衛門は次男の友成さんの時代に
この方が住友財閥最後の16代住友吉左衛門友成さん。
この方も1928年(昭和3年)に大阪市が募集した
大阪城天守閣再建の寄付金に25万円を寄贈されてまっせ。
募集の総額が150万円で78250人が応募し
数か月で満額が集まったとの記事が残ってますんや。
住友吉左衛門の25万円から10銭を寄付した市民まで
お上が与り知らない大阪人が単独で造ったお城でんな。
(大阪城天守閣 昭和6年完成)
この天守閣の建築費が47万円で公園整備に23万円。
天守閣の半分以上を住友家が負担したようなもんでっしゃろ。
現在のお金で換算したら100億円とも200億円とも
言われる多額のお金を住友家が寄贈した訳でっせ。
戦前は大阪城内の全てを日本陸軍が所有する土地で同時に
大阪第四師団の本庁舎を建設するのに80万円が使われてまぁ。
(大阪城内 旧第4師団庁舎)
そもそも昭和天皇即位を祝して大阪城天守閣を再建する
そういう理由だったので日本陸軍も文句を言えなかったとか。
おまけに師団庁舎まで造ってくれるので仕方がないとね。
この大阪城天守閣と陸軍第4師団庁舎はアメリカ軍の空襲に
1トン爆弾の被害を受けたけど、かすり傷で済んだんだだって。
大阪城の天守閣は現在は各地で増えている天守閣再建の動きと
城内に展示館を設ける先駆けとなったように言われてますんや。
蛇足ながら現在も土地の登記は陸軍省のままで国が無償で
大阪市に提供しているということになりまんねん。
天守閣は不思議なことに建物の登記がされてまへんのや。
まさか大阪城天守閣は「わいの物や~」なんて言い出す
変なやからは居ないのでこれで良いんだそうでっけど。
(天王寺公園内 慶沢園)
次回は住友家本宅の庭園だった慶沢園(けいたくえん)と
茶臼山などを紹介しまひょかな。
それじゃ~ 今日はこれで、さいなら~♪
住友吉左衛門(すみともきちざえもん)と名乗り
現在の17代目の当主も住友吉左衛門さんでっせ。
今回は明治から大正に渡り住友財閥を率いた
15代住友吉左衛門友純(ともいと)さんのお話。
1890年(明治23年)に12代友親(ともちか)
13代友忠(ともただ)が相次いで亡くなります。
親子二代が同じ年に亡くなる存亡の危機でっしゃろ。
12代友親の妻である登久(とく)を14代目に据え
合わせて13代友忠の妹である満寿に婿養子を迎え
15代目を継いだのが住友吉左衛門友純さんでっせ。
この方は公家の徳大寺隆麿さんと呼ばれ、有名な
西園寺公望(さいおんじきんもち)の弟さんになる
名門の若君さんですが三男坊さんになりますんや。
長兄は明治天皇の侍従長を勤めた徳大寺実則さん。
今に続く社会・文化貢献を続ける住友グループの
元祖的な事業を始めたお方だと言えるかもしれまへん。
(大阪府立中之島図書館)(国の重要文化財に指定)
江戸時代から住友の事業が大阪を本拠に続けてこれた感謝の
しるしとして図書館と図書購入の資金を寄贈されましたんや。
普通ならお金だけを寄付することが多いんですが彼は
住友本社に臨時建設部を設け建物を建てて寄贈でんがな。
それが1904年(明治37年)3月のことでおます。
耐震工事を経て2015年から再度の使用が始まりました。
1922年(大正11年)には手狭になったとのことで
これも住友本社が左右に増築をして再び寄贈だって。
それにしても太っ腹なお方だなと思いまへんか。
(中之島図書館を 正面左から撮影)
鉄ちゃん爺やも学生時代には何度も訪れたもんですわ。
現在は古文書や大阪の文献やビジネス関連の書籍に特化し
それでも蔵書は約50万冊を誇る立派な図書館でおます。
現在は東大阪市に大阪府立中央図書館が新しくできまして
一般の蔵書約50万冊がそちらへ移されて昔よりは小規模に。
大阪府と大阪市の統合で図書館も集約の話がおましたけど
耐震工事をして従来通りの府立図書館で存続のようでっせ。
まあ~ 図書館は各地に沢山あっても良い話でっしゃろ。
続いては15代住友吉左衛門友純さん晩年のお話へ。
(天王寺公園から 通天閣方向を撮影)
江戸時代から住友家の本宅は大阪市の鰻谷におました。
現在の末吉橋の西南の辺り一帯だったと記録されてまぁ。
そこは長堀川に面しており東横堀川にも近い現在の建物では
三井住友銀行の事務センターが有る辺りになりまんねん。
約2400坪の敷地の東半分が銅の精錬所で西側半分が
代々の住友本家の邸宅だったそうですわ。
明治9年に銅の精錬所は他に移ったそうでっけど住友家は
その後も島之内と呼ばれる鰻谷に残ったように聞いてまぁ。
1914年(大正4年)に住友家は鰻谷を離れて天王寺の
現在は天王寺公園となっている附近に引っ越すんですわ。
処が10年も経たない内に神戸の住吉村へ移るんでっせ。
1925年(大正14年)の引っ越しだったそうでんな。
その頃、大阪市が美術館を造るべく土地を探していたが
難航して、なかなか見つからなかったようですわ。
それを聞いた住友吉左衛門友純は大阪市に美術館を造るの
条件付きなら住友家本宅跡を寄贈すると言われたとか。
同時に現在は慶沢園(けいたくえん)と呼ばれる庭園や
茶臼山を合わせて全敷地を大阪市に寄贈したんだって。
寄贈を受けた大阪市や議会の方がびっくりしたとか。
現在の地価に換算したら約35億円~50億円だっせ。
その坪数が17500坪(57750㎡)とも
12940坪(42702㎡)との二説が残ってまぁ。
その住友家本宅の跡地が現在は大阪市立美術館でおます。
(大阪市立美術館)
住友吉左衛門友純さんは本宅を含む敷地を寄贈して
その1年後にあたる1926年(大正15年)に死亡。
この美術館は昭和大恐慌や室戸台風など何度も工事が
中断しながら1936年(昭和11年)4月に完成。
設計から完成まで10年を超える難工事だったようでっせ。
(大阪市立美術館 右手から撮影)
完成した時には住友吉左衛門は次男の友成さんの時代に
この方が住友財閥最後の16代住友吉左衛門友成さん。
この方も1928年(昭和3年)に大阪市が募集した
大阪城天守閣再建の寄付金に25万円を寄贈されてまっせ。
募集の総額が150万円で78250人が応募し
数か月で満額が集まったとの記事が残ってますんや。
住友吉左衛門の25万円から10銭を寄付した市民まで
お上が与り知らない大阪人が単独で造ったお城でんな。
(大阪城天守閣 昭和6年完成)
この天守閣の建築費が47万円で公園整備に23万円。
天守閣の半分以上を住友家が負担したようなもんでっしゃろ。
現在のお金で換算したら100億円とも200億円とも
言われる多額のお金を住友家が寄贈した訳でっせ。
戦前は大阪城内の全てを日本陸軍が所有する土地で同時に
大阪第四師団の本庁舎を建設するのに80万円が使われてまぁ。
(大阪城内 旧第4師団庁舎)
そもそも昭和天皇即位を祝して大阪城天守閣を再建する
そういう理由だったので日本陸軍も文句を言えなかったとか。
おまけに師団庁舎まで造ってくれるので仕方がないとね。
この大阪城天守閣と陸軍第4師団庁舎はアメリカ軍の空襲に
1トン爆弾の被害を受けたけど、かすり傷で済んだんだだって。
大阪城の天守閣は現在は各地で増えている天守閣再建の動きと
城内に展示館を設ける先駆けとなったように言われてますんや。
蛇足ながら現在も土地の登記は陸軍省のままで国が無償で
大阪市に提供しているということになりまんねん。
天守閣は不思議なことに建物の登記がされてまへんのや。
まさか大阪城天守閣は「わいの物や~」なんて言い出す
変なやからは居ないのでこれで良いんだそうでっけど。
(天王寺公園内 慶沢園)
次回は住友家本宅の庭園だった慶沢園(けいたくえん)と
茶臼山などを紹介しまひょかな。
それじゃ~ 今日はこれで、さいなら~♪
住吉家とかあったんですね。知りませんでした。中之島図書館は行ってないですね、以前通りましたが
住吉家財産家だったんでしょうね寄贈するくらいだからね
だから風流な建物が多いいのかな。昨日の夜は7時から
11時までカラオケすがたで練習してました今日明日はのんびりです。寒いのでお身体にご自愛下さい。明日天気なら自転車移動です。
10歳年上の姉は住友銀行に勤務していました。
家族8人が父の給料で生活していましたが、
姉の初任給が父親と同じだったそうです。
ボクが就職する時に母が話してくれました。
我が家の日めくりカレンダーには~
ちゃんと「15日小豆粥」と書いて有ります。
私も毎年(最近は一人分ですが)作り頂いてますのよっ
でも今年は今日の鏡開きにお汁粉を昨夜作って(全部の小豆を使用)しまいましたので~ドジ・ドジババで~すねっ
パスするかもで~~~す
先程!青森県で5弱の地震が
被害の無い事を願っております_(._.)_
こういう事が出来たんですね~
2日前でしたかテレビで豪邸に住んでいる方の家を
見ていましたが
途中で嫌になってチャンネルを替えてしまいました
私ら貧乏人には豪邸は似合いません。
唖然と言うか もしや単位間違えかと・・・・
猜疑心が強すぎましたごめんなさい
だって我々一般人には想像を絶する額に
ただ驚きました
真のお金の使い方を知っているんですよ
大阪が生んだ世界に誇る世界最古の財閥ですね
住吉家 → 住友家 ですよ。
住友吉衛門友成さんは私が幼少の頃には、確か
長者番付けで第1位にランクされた年もありました。
戦前から敗戦の直後まで大阪で一番の
お金持ちだったんでしょうね。
住友家は「君臨すれども統治せず」
大番頭さんである総理事を中心にしての業務には
口を出さず信認することに努めたそうです。
三井や三菱とは違いがあったと聞いています。
友純さんは公家さんの出身だから仕事には
口を出さない方が良いと考えたからかもしれません。
一度、ネットで調べてみようと思います。
貴重な情報を有難うございました。
関東でも六本木1丁目や横浜の戸塚や大磯など。
戸塚の俣野別邸は平成5年に住友友成さんが亡くなり
国に遺産相続税の物納で国庫へ。
この別邸は重要文化財に指定された直後に
放火で焼けてしまったそうですけど。
最近は公園として整備されつつあるとか聞きましたよ。
お金持ちでびっくりしますね。
最近は住友グループ30社で300億円ぐらい基金を
出資して社会や文化の貢献を続けているそうです。
昔は住友家が単独でこれぐらいの寄付金を出した
現在では考えられない金額ですよね。