今回も伏見のお話の続きでっせ~
(御香宮神社 ごこうぐうじんじゃ)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(本殿を裏側から撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
徳川家康公が1605年(慶長10年)京都所司代・板倉勝重を普請奉行に命じて
建立したと墨書きで銘が入っているそうですわ。
この神社の主神は神功皇后さんで他に夫である仲哀天皇や息子の応神天皇他6神が
お祀りされてるんやそうな。
地元では安産のご利益が篤いとかで有名な神社なんだって。
(本殿正面 神紋)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
左三つ巴は応神天皇の八幡さんと同じだけど一番上に橘の紋が入ってまんな。
神功皇后が応神天皇を出産されて大和へ帰還される時に「橘」を奉ったとの
伝説がおますから神功皇后さんを表しているんでっしゃろかしら。
この神社の社務所に小堀遠州ゆかりの庭があるそうなんで
拝観させてもらいましたんや。
(小堀遠州ゆかりの庭園) (御香宮神社 社務所内)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1623年(元和9年)に小堀遠州は伏見奉行に命じられると、
直ぐに伏見奉行所内に石庭を造ったと言われてまんねん。
この庭園を見た三代将軍・徳川家光が五千石を加増したという由来から
小堀遠州さん出世の庭と呼ぶそうでっせ。
(庭園を アップで撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
パンフレットや屋内放送では五千石加増され大名になったと説明されてましたんやけど
小堀遠州は親の代から備中で1万2千石の大名だったはず?
だから伏見奉行にもなれたはずなんだけど、まあ~ 野暮な話しは止めておきまひょ。
(室町時代の銘が入った 手水鉢)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1477年(文明9年)と入ってるそうで応仁の乱の頃に出来た手水鉢でんな。
当時は太閤秀吉さんが造った伏見城を取り壊しましたんで
その石などを小堀遠州はうまく利用したんでっしゃろか?
前回に書き込みましたけど伏見奉行所は鳥羽伏見の戦いに薩摩軍の砲撃で焼失
明治になってからは陸軍の工兵大隊の駐屯地に使われたんやそうな。
戦後はアメリカ軍によって占拠されこの庭も凄く荒廃していたそうでっせ。
(御香宮神社 社務所座敷か庭園を臨む)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦後に伏見奉行所跡は京都市に払い下げられたそうで市営住宅を造るとの
計画が決まったんやそうですわ。
小堀遠州ゆかりの庭が取り潰されることに御香宮神社の宮司さんが大層に心配されて
中根造園研究所と相談の上で社務所の座敷裏にに復元することに成ったとか。
小堀遠州さんは京都を中心に有名な庭を幾つも造られたようでんな。
小堀遠江守政一(こぼり とおとうみのかみ)が正式なお名前ですが
世の中は小堀遠州さんと呼んでますかな。
小堀遠州は自分の造った庭を見ながら晩年を過ごされたようですわ。
蛇足ながら小堀遠州さんは伏見奉行在職中にお亡くなりになってまっせ。
(御香宮神社 参道)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
もう一つだけ伏見で登録有形文化財になってる鉄橋を見に行きまひょか~
伏見奉行所跡を南へ200mぐらいで宇治川の堤防にでまんねんわ。
(宇治川の流れと 近畿日本鉄道の橋梁)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
淀川は琵琶湖から流れ出す瀬田川が京都に入ると宇治川と名を変え
大阪府に入った処で桂川と木津川の三つが合流し淀川となりまんねんで。
ここから大阪湾まではまだ44kmもあると書かれてまんな。
宇治川は本流でっさかいに「よどがわ」と言っても間違いではおまへんで。
実はこの近鉄電車の鉄橋が国の登録有形文化財なんでっせ。
(澱川橋梁 よどがわきょうりょう)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
名前も淀川なのに「澱川 よどがわ」と難しい字を宛てがってますんや。
実はこの橋梁は全長が164m有るんでっけど川の中に橋脚がおまへんやろ。
ワンスパンのトラスト橋としては日本で一番長い鉄橋なんでっせ。
普通は川の中に3つ~4つの橋脚を用意するのが標準的な鉄橋ですわな。
(澱川橋梁) (近畿日本鉄道 京都線)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この橋梁は昭和天皇の即位式(御大典)に合わせて奈良電鉄が京都市から
伏見を経由して神武天皇の御陵のある橿原神宮まで鉄道を造ることになったんですわ。
ところがこの宇治川の付近は明治時代から京都第16師団工兵大隊の
架橋や渡河の為の演習地として使われていたんですな。
演習地を他に移すにも近くには見当たらなかったそうでんな。
陸軍の演習に支障が出るとの理由から川の中に橋脚を造ることが
許可されなかったんで、長大なトラスト橋でひと跨ぎすることになったんですわ。
1928年(昭和3年)のことで当時としては技術的にも難しい工法だったとか。
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この鋼材はアメリカから輸入したものが大半で当時の日本では八幡製鉄しか
製造できなかった鋼鉄なんですが八幡製鉄は軍艦用で手いっぱいだったそうな。
急遽アメリカから輸入し神戸の川崎造船で加工し船で淀川を遡上して約半年間で
大林組が組み立てて完成させたものだそうですわ。
昭和の初めまで淀川は水運として利用できていたんでんな。
6両編成の電車が橋梁の中間ですれ違っても耐えられる重量(約3000トン)を
両端で支えているので平成になってからこの部分だけが修理されたけど
本体は85年を経過した現在も十分に使用できる強度を維持しているそうだっせ。
昭和初期の日本での橋梁架橋技術を誇る文化遺産だとの理由で
国の登録有形文化財に指定されたそうですわ。
最後に陸軍が別に意地悪したわけじゃなく、奈良電鉄の伏見御陵前駅から
この宇治川堤防までの高架鉄道用地を無料で払い下げるという粋な
計らいもし協力したんだということを付け加えておきまっさ。
(京都第16師団 第16工兵大隊 駐屯地跡の石碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
次回は師団街道から伏見稲荷大社の方へ向かいまっせ。
ほんなら~ 今日はこれで失礼させてもらいまひょ さいなら~
(御香宮神社 ごこうぐうじんじゃ)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(本殿を裏側から撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
徳川家康公が1605年(慶長10年)京都所司代・板倉勝重を普請奉行に命じて
建立したと墨書きで銘が入っているそうですわ。
この神社の主神は神功皇后さんで他に夫である仲哀天皇や息子の応神天皇他6神が
お祀りされてるんやそうな。
地元では安産のご利益が篤いとかで有名な神社なんだって。
(本殿正面 神紋)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
左三つ巴は応神天皇の八幡さんと同じだけど一番上に橘の紋が入ってまんな。
神功皇后が応神天皇を出産されて大和へ帰還される時に「橘」を奉ったとの
伝説がおますから神功皇后さんを表しているんでっしゃろかしら。
この神社の社務所に小堀遠州ゆかりの庭があるそうなんで
拝観させてもらいましたんや。
(小堀遠州ゆかりの庭園) (御香宮神社 社務所内)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1623年(元和9年)に小堀遠州は伏見奉行に命じられると、
直ぐに伏見奉行所内に石庭を造ったと言われてまんねん。
この庭園を見た三代将軍・徳川家光が五千石を加増したという由来から
小堀遠州さん出世の庭と呼ぶそうでっせ。
(庭園を アップで撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
パンフレットや屋内放送では五千石加増され大名になったと説明されてましたんやけど
小堀遠州は親の代から備中で1万2千石の大名だったはず?
だから伏見奉行にもなれたはずなんだけど、まあ~ 野暮な話しは止めておきまひょ。
(室町時代の銘が入った 手水鉢)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1477年(文明9年)と入ってるそうで応仁の乱の頃に出来た手水鉢でんな。
当時は太閤秀吉さんが造った伏見城を取り壊しましたんで
その石などを小堀遠州はうまく利用したんでっしゃろか?
前回に書き込みましたけど伏見奉行所は鳥羽伏見の戦いに薩摩軍の砲撃で焼失
明治になってからは陸軍の工兵大隊の駐屯地に使われたんやそうな。
戦後はアメリカ軍によって占拠されこの庭も凄く荒廃していたそうでっせ。
(御香宮神社 社務所座敷か庭園を臨む)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
戦後に伏見奉行所跡は京都市に払い下げられたそうで市営住宅を造るとの
計画が決まったんやそうですわ。
小堀遠州ゆかりの庭が取り潰されることに御香宮神社の宮司さんが大層に心配されて
中根造園研究所と相談の上で社務所の座敷裏にに復元することに成ったとか。
小堀遠州さんは京都を中心に有名な庭を幾つも造られたようでんな。
小堀遠江守政一(こぼり とおとうみのかみ)が正式なお名前ですが
世の中は小堀遠州さんと呼んでますかな。
小堀遠州は自分の造った庭を見ながら晩年を過ごされたようですわ。
蛇足ながら小堀遠州さんは伏見奉行在職中にお亡くなりになってまっせ。
(御香宮神社 参道)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
もう一つだけ伏見で登録有形文化財になってる鉄橋を見に行きまひょか~
伏見奉行所跡を南へ200mぐらいで宇治川の堤防にでまんねんわ。
(宇治川の流れと 近畿日本鉄道の橋梁)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
淀川は琵琶湖から流れ出す瀬田川が京都に入ると宇治川と名を変え
大阪府に入った処で桂川と木津川の三つが合流し淀川となりまんねんで。
ここから大阪湾まではまだ44kmもあると書かれてまんな。
宇治川は本流でっさかいに「よどがわ」と言っても間違いではおまへんで。
実はこの近鉄電車の鉄橋が国の登録有形文化財なんでっせ。
(澱川橋梁 よどがわきょうりょう)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
名前も淀川なのに「澱川 よどがわ」と難しい字を宛てがってますんや。
実はこの橋梁は全長が164m有るんでっけど川の中に橋脚がおまへんやろ。
ワンスパンのトラスト橋としては日本で一番長い鉄橋なんでっせ。
普通は川の中に3つ~4つの橋脚を用意するのが標準的な鉄橋ですわな。
(澱川橋梁) (近畿日本鉄道 京都線)
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この橋梁は昭和天皇の即位式(御大典)に合わせて奈良電鉄が京都市から
伏見を経由して神武天皇の御陵のある橿原神宮まで鉄道を造ることになったんですわ。
ところがこの宇治川の付近は明治時代から京都第16師団工兵大隊の
架橋や渡河の為の演習地として使われていたんですな。
演習地を他に移すにも近くには見当たらなかったそうでんな。
陸軍の演習に支障が出るとの理由から川の中に橋脚を造ることが
許可されなかったんで、長大なトラスト橋でひと跨ぎすることになったんですわ。
1928年(昭和3年)のことで当時としては技術的にも難しい工法だったとか。
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この鋼材はアメリカから輸入したものが大半で当時の日本では八幡製鉄しか
製造できなかった鋼鉄なんですが八幡製鉄は軍艦用で手いっぱいだったそうな。
急遽アメリカから輸入し神戸の川崎造船で加工し船で淀川を遡上して約半年間で
大林組が組み立てて完成させたものだそうですわ。
昭和の初めまで淀川は水運として利用できていたんでんな。
6両編成の電車が橋梁の中間ですれ違っても耐えられる重量(約3000トン)を
両端で支えているので平成になってからこの部分だけが修理されたけど
本体は85年を経過した現在も十分に使用できる強度を維持しているそうだっせ。
昭和初期の日本での橋梁架橋技術を誇る文化遺産だとの理由で
国の登録有形文化財に指定されたそうですわ。
最後に陸軍が別に意地悪したわけじゃなく、奈良電鉄の伏見御陵前駅から
この宇治川堤防までの高架鉄道用地を無料で払い下げるという粋な
計らいもし協力したんだということを付け加えておきまっさ。
(京都第16師団 第16工兵大隊 駐屯地跡の石碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
次回は師団街道から伏見稲荷大社の方へ向かいまっせ。
ほんなら~ 今日はこれで失礼させてもらいまひょ さいなら~
朝廷の京を重んじる姿勢が見られますね。
3代将軍の家光も東照宮同様に親思いがここでも証明されていますね。
淀川橋梁、昭和天皇の即位式に併せて~
天皇の通る道〔逆らえば国賊? そんな時代かな-〕
昭和3年とは天皇神格化のときですね。)
軍備増強のとき~日本の技術力~色々なところで生かされていたのかな…
小堀遠州は茶道
小堀系に代々伝わるお雛様を
雑誌で見たことがあります
とかみさんの方がよく知っていました。
作庭でも有名ですが、茶人としても名を残しています。
端正で使いやすそうなお茶碗ですね。
お茶碗については少し勉強しました。
茶碗は高価で買えないので、ぐい飲みを買って沢山もっています。(50個以上)
写真で、畳が傷んでいるのが、なんだか予算が無いのかなってちょっと残念でした。
しかし、色々あるものですね。
京都、奈良には。
お城の鬼門にと城内に取り込んだ物を
徳川家康が元の位置に戻すために本殿を造営したようですな。
秀吉のやったことを否定するのがこの頃の家康さんのやり方だけど
神社はやはり元の位置に在ってこそ意味があるんでこれは正解だと思いますね。
千利休・古田織部と師匠が二代続けて切腹さされたそうですが
小堀遠州は分をわきまえたのか人生を全うして伏見で静かに亡くなったようです。
小堀遠州流って今でも続いているんですね。
私は庭の方ばかり眼がいってましたので茶道の茶碗や
陶器類には気が付きませんでした。
大名茶道を確立した人だから当然ながら陶器類にも優れた作品が残っているんでしょうね。
長い編成の電車が通過するのを
計算して設計したとは驚きですね。
画像では真ん中で折れないか心配になりますが
大丈夫なのでご安心ください。