ほな~ 今回は京都の伏見のお話をしまひょかな。
現在では京都市伏見区と言い京都市の11ある行政区では人口が一番多い街でっせ。
京都市にはおよそ147万人が住んではりまっけど、その内26万8千人もの方が
伏見区に住民登録をしてはりますんや。
そやけど~ 江戸時代まで伏見は京都とは呼ばなかったんでっせ。
京都と大坂を結ぶ宿場町であると共に、淀川の水運を司る重要な港でもおましたんや。
ここ伏見からは大坂の八軒家浜(現在の天満橋付近)に向けて三十石船が約半日で
淀川を下り、逆に商都大坂から物資やお客を積んで戻ってきたそうでんな。
(元船宿 寺田屋の提灯)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在はこの寺田屋しか残ってまへんけど、明治時代前半までは多くの船宿が
軒を並べて居たそうで、ここで1泊してから翌朝の三十石船に乗ったそうですわ。
ここ伏見の寺田屋を訪れるのは鉄ちゃん爺やは30年ぶりでしたんや。
(伏見 寺田屋) (入場料400円)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
前回はこの屋敷の中にも入り寺田屋事件の刀傷などを見学して歴史に浸ったのは
まだ昭和の時代で、てっきりここは江戸時代の建物やと思ってましたんや。
ところが古文書などにより寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したとの説が出てきて
江戸時代の建物が残っているとの学説との歴史論争が続きましたんでっせ。
最終的には平成になってから京都市が寺田屋は明治時代に建て替えられたとの
結論を出して一件落着となったそうですわ。
歴史のロマンが萎みましたけど観光客はそんなことには気にもかけず
この日も観光バスで酒蔵巡りと合わせて見学してはりましたで。
(寺田屋 薩摩藩士9名殉難の石碑) (文久2年4月)(西暦1862年)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここ寺田屋は明治維新前夜に、二度ばかり歴史に登場することでご存知でっしゃろ。
最初が1862年(文久2年)の寺田屋事件と呼ばれる薩摩藩士の殺害事件でんな。
島津久光(藩主の実父)が藩士1000名を引き連れて上洛してきはりましたんや。
この島津久光さんは公武合体で幕政を改革するという考え方だったそうです。
一方で過激な尊王攘夷を唱える薩摩藩士がここ寺田屋に他藩の人物も含めて
約40人が集結し京都所司代と関白九条尚忠を襲撃することを計画してました。
島津久光は中心人物の西郷隆盛を逮捕して国元へ送還すると共に
寺田屋に集結した藩士の有馬新七ほかの薩摩藩邸への帰還を命じます。
もし君命に背いた場合は臨機の措置をとるようにと命じたので
寺田屋で帰還を命じる話し合いが決裂し薩摩藩士同士の刃傷沙汰となりましたんや。
結局は有馬新七以下7名が死亡し2名が重症の後に自刃したそうでんな。
その悲劇を演じた寺田屋でっけど鳥羽伏見の戦いで焼失したちゅうことでっから
あの刀傷は明治になってからわざと切りつけた物でっしゃろかしら?
歴史のロマンに水を差すような意見でっけど答えは何処にも書いてまへんな。
(伏見の船宿 寺田屋を側面から撮影)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(寺田屋敷地内の お登勢明神さんの立札)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
もう一つは坂本龍馬はんが伏見奉行所の襲撃を受けたちゅう事件でっしゃろ。
ここ寺田屋は薩摩藩士の定宿だったので裏から援助を受けていた坂本龍馬はんも
勤王の志士たちと良く会合を重ねてはったようでんな。
寺田屋はんもこんな大明神を造って変な観光地化にしてはりまっせ。
(お登勢大明神 絵馬)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
お登勢さんとは当時の寺田屋の女将さんで、坂本龍馬の妻となったお龍さんとは
当時はここ寺田屋の女中さんだったようですわ。
1866年(慶応2年)1月に仕事を終えて風呂に入っていたお龍さんが
奉行所の捕手が囲んでいるのに気がついて裸のままで2階へ上がり
坂本龍馬に危険を知らせたという有名なエピソードがおますやろ。
捕手たちは、なにせ北辰一刀流の使い手だと言うのでへっぴり腰で応戦
坂本龍馬はピストルを撃ちながら脱出に成功したそうでんな。
(寺田屋の前 宇治川の派流)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この川は改修されながらも豊臣秀吉が伏見城を造った当時の外堀の一部だそうですわ。
この画像の右手の方へ坂本龍馬は逃れて約500m先の材木小屋に隠れたようですな。
近くの薩摩藩邸の伏見・留守居役が船を出し助け上げて藩邸へ迎え入れたようですわ。
薩摩の留守居役は奉行所の引渡しにも応じず、後に寺田屋のお龍さんと一緒に
薩摩へ逃がしたのが、最近は日本初の新婚旅行だと言われてまっしゃろ。
(寺田屋敷地内の 坂本龍馬銅像)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ほな~ ここから歩きながら伏見奉行所跡の方へむかいまひょ。
(伏見 龍馬通り)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
坂本龍馬が潜伏していた辺りだったそうでこんな名前を付けたようでっせ。
近くには土佐藩邸も在ったようで脱藩した坂本龍馬も万一の場合は同志の居る
土佐藩邸へ逃げ込むことも考えていたんでっしゃろか。
江戸時代後半には京都の洛中に諸藩の藩邸が多くできて来ましたが
元々は、ここ伏見にしか諸国の京都藩邸は置けなかったそうですわ。
伏見は京都には近いけど京都(洛中)ではないちゅうことでっせ。
(伏見 土佐藩邸跡の石碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
江戸幕府は伏見から山科追分を通って草津宿から東海道か中山道を通って
江戸と西国を参勤交代することと厳しく定めていたそうだっせ。
天皇の居られる京都洛中には近寄らせないというのが、大方針で江戸時代初期から
ここ伏見に奉行所を置いて西国大名の監視と大坂~京都間の物流を把握したそうな。
普通の遠国奉行は旗本の3千石~5千石クラスが任命されるそうでっけど
ここ伏見奉行所だけは譜代の1万石~2万石の大名が役職に付いたそうですわ。
江戸幕府がいかに京都と朝廷に接近する西国大名を警戒したかがわかりまっしゃろ。
(伏見奉行所跡 石碑のみ)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在は京都の市営住宅の敷地になり石碑しか残っていませんな。
古い絵地図などを見れば石垣が積まれて小さい城郭のような建物だったようでっせ。
(御香宮 一の鳥居) (正式には御香宮神社)(ごこうぐうじんじゃ)
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画像からでも登り坂になっているのがわかりまっしゃろ。
この道は豊臣秀吉が伏見城を造ったときに出来た大手筋通りと言いまんねんで。
今でも伏見では一番の繁華街がこの画像の反対側に商店街でおますんや。
この大手筋通りを登りきったら明治天皇と皇后の御陵が在る昔の伏見城本丸ですわ。
(御香宮神社 ごこうぐうじんじゃ)(表門) (国の重要文化財です)
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1622年(元和8年)水戸の徳川頼房公(水戸黄門様のお父上)が
伏見城の大手門を拝領したのをここへ寄進したという立派な建造物だっせ。
徳川さんの天下が定まり豊臣秀吉の影が残る伏見城を徹底的に取り壊したそうな。
この表門を通して見える大手筋通り側には伏見奉行所の北門があったそうですわ。
(御香宮神社境内の 石碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1868年(慶応4年)旧暦1月3日にこの神社の境内に薩摩藩の軍勢が約800人
集結し南側の伏見奉行所とにらみ合いの形となったそうな。
伏見奉行所には大政奉還で京都の治安警備を解かれた会津藩と新選組が大坂から
ここ伏見奉行所まで戻ってきていたそうですわ。
こちらも兵力が約1000人と言われ、もし戦いが始まればここ伏見が主戦場になると
双方が考えていたようでっせ。
(御香宮神社境内の 御香水) (伏見の七名水の一つ)
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薩摩軍は800人の軍勢の水を確保する為この神社に陣地を構えたんでっしゃろな。
この名水は平安時代に良い香りがすると清和天皇さんが「御香水」と名前を付け
神功皇后と応神天皇をお祀りするこの神社の名前の由来にもなったようだっせ。
伏見でお生まれになった徳川御三家初代の義直・頼宣・頼房公はおさん方ともに
この「御香水」を使って産湯をされたと伝わっているそうな。
だからこの神社の本殿を修復すると時には尾張・紀州・水戸の御三家から寄進を受け
氏子たちの寄付金と合わせて伏見奉行所が執り行うのが規則だったようでっせ。
ところで~ ここが主戦場になるとの予想が外れて鳥羽街道を大坂から北上した
幕府軍約1万5千人が「討薩の表」という文書を持って将軍が上洛する先陣を勤め
鳥羽街道の鴨川に架かる小枝橋で薩摩軍に止められてしまうんですわな。
通せ~ 許可がないので通せない~ こんな押問答があったようでっせ。
幕府軍は約1万5千人だから5千人足らずの薩摩・長州勢は道を開けると考えたようでんな。
普通は軍勢を左右に展開するのが基本でっけど、それもしなかったので夕方になり
薩摩軍の砲兵隊が幕府軍に大砲を打ち込んで戦闘開始となったようだっせ。
この鳥羽街道での大砲の音を聞いた伏見・薩摩軍の大山弥助(後の元帥大山巌)が
御香宮神社の東側高台から同じく大砲を伏見奉行所に向けて発射したそうな。
これが命中して伏見奉行所は炎上焼失してしまったそうですわ。
(伏見 亀三楼の柱に銃弾の跡)
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この弾痕は鳥羽伏見の戦いに際し焼けずに済んだ料亭の玄関横の柱に
今でも残っていて店主の説明書きが添えられていますな。
亀三楼は薩摩軍に食料を差し入れしていたので焼き討ちに合わなかったとか
そんなことを書かれてる本もおますけど。
この辺は新選組の土方歳三を隊長に永倉新八をはじめとする約150人が刀と槍で
薩摩軍の小銃隊に応戦し一時は1kmぐらい先の墨染辺りまで押し返したそうな。
でも刀と槍では勝ち目がなく翌日の1月4日になって土佐藩や長州藩が参戦し
錦の御旗が翻ったとの噂もあって会津藩と新選組は宇治川を下って
淀城方面へ撤退したそうな。
(伏見の 京町通り)
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この道は北へ上ると京都の南座の辺りを通り大原方面へ抜ける道なんですよ。
この辺りも鳥羽伏見の戦いでは街並みが全て焼け落ちた処だそうな。
特に3日の夜から4日にかけての激しい市街戦で伏見の南半分の街がほとんど
焼けてしまい伏見の薩摩藩邸も土佐藩邸も多くの酒蔵も焼失したそうですわ。
伏見が復活するのは明治時代になってからになるそうですわ。
(幕府軍が伏見から撤退した宇治川の右岸) (左にかすかに男山が見えます)
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最終的には淀城に立て篭る予定の幕府軍は家老の田辺権太夫に城門を閉められ
男山から橋本あたりまで撤退したようでんな。
時の老中で江戸にいた稲葉正邦は譜代の名門なのにどうしたんでしょうね。
翌5日には淀川の対岸に居る津の藤堂藩が男山に大砲を打ち込んで寝返るは
広島の浅野家や鳥取の池田家までが朝廷方に加わり勝敗が決してしまいましたんや。
考えたら幕府軍は鳥羽街道だけじゃなく竹田街道や西国街道方面にも軍勢を分け
兵力の少ない薩摩・長州勢に対応する知恵がなかったちゅうことでっしゃろな。
主戦場の鳥羽街道で行軍の縦隊のままで応戦してほとんど壊滅的な被害を出した
大目付・旗本滝川某では1万5千人の兵力を指揮する能力がなかったんでしょうな。
そのあげくに翌6日には総大将の徳川慶喜以下の幹部が船で大坂から江戸へ
敵前逃亡するようじゃ徳川家康公も草場の陰で泣かれたことでしょうね。
長くなりましたので、次回は小堀遠州ゆかりの石庭などを紹介しまひょ。
ほな~ 今日はこれで さいなら~
現在では京都市伏見区と言い京都市の11ある行政区では人口が一番多い街でっせ。
京都市にはおよそ147万人が住んではりまっけど、その内26万8千人もの方が
伏見区に住民登録をしてはりますんや。
そやけど~ 江戸時代まで伏見は京都とは呼ばなかったんでっせ。
京都と大坂を結ぶ宿場町であると共に、淀川の水運を司る重要な港でもおましたんや。
ここ伏見からは大坂の八軒家浜(現在の天満橋付近)に向けて三十石船が約半日で
淀川を下り、逆に商都大坂から物資やお客を積んで戻ってきたそうでんな。
(元船宿 寺田屋の提灯)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
現在はこの寺田屋しか残ってまへんけど、明治時代前半までは多くの船宿が
軒を並べて居たそうで、ここで1泊してから翌朝の三十石船に乗ったそうですわ。
ここ伏見の寺田屋を訪れるのは鉄ちゃん爺やは30年ぶりでしたんや。
(伏見 寺田屋) (入場料400円)
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前回はこの屋敷の中にも入り寺田屋事件の刀傷などを見学して歴史に浸ったのは
まだ昭和の時代で、てっきりここは江戸時代の建物やと思ってましたんや。
ところが古文書などにより寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼失したとの説が出てきて
江戸時代の建物が残っているとの学説との歴史論争が続きましたんでっせ。
最終的には平成になってから京都市が寺田屋は明治時代に建て替えられたとの
結論を出して一件落着となったそうですわ。
歴史のロマンが萎みましたけど観光客はそんなことには気にもかけず
この日も観光バスで酒蔵巡りと合わせて見学してはりましたで。
(寺田屋 薩摩藩士9名殉難の石碑) (文久2年4月)(西暦1862年)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
ここ寺田屋は明治維新前夜に、二度ばかり歴史に登場することでご存知でっしゃろ。
最初が1862年(文久2年)の寺田屋事件と呼ばれる薩摩藩士の殺害事件でんな。
島津久光(藩主の実父)が藩士1000名を引き連れて上洛してきはりましたんや。
この島津久光さんは公武合体で幕政を改革するという考え方だったそうです。
一方で過激な尊王攘夷を唱える薩摩藩士がここ寺田屋に他藩の人物も含めて
約40人が集結し京都所司代と関白九条尚忠を襲撃することを計画してました。
島津久光は中心人物の西郷隆盛を逮捕して国元へ送還すると共に
寺田屋に集結した藩士の有馬新七ほかの薩摩藩邸への帰還を命じます。
もし君命に背いた場合は臨機の措置をとるようにと命じたので
寺田屋で帰還を命じる話し合いが決裂し薩摩藩士同士の刃傷沙汰となりましたんや。
結局は有馬新七以下7名が死亡し2名が重症の後に自刃したそうでんな。
その悲劇を演じた寺田屋でっけど鳥羽伏見の戦いで焼失したちゅうことでっから
あの刀傷は明治になってからわざと切りつけた物でっしゃろかしら?
歴史のロマンに水を差すような意見でっけど答えは何処にも書いてまへんな。
(伏見の船宿 寺田屋を側面から撮影)
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(寺田屋敷地内の お登勢明神さんの立札)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
もう一つは坂本龍馬はんが伏見奉行所の襲撃を受けたちゅう事件でっしゃろ。
ここ寺田屋は薩摩藩士の定宿だったので裏から援助を受けていた坂本龍馬はんも
勤王の志士たちと良く会合を重ねてはったようでんな。
寺田屋はんもこんな大明神を造って変な観光地化にしてはりまっせ。
(お登勢大明神 絵馬)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
お登勢さんとは当時の寺田屋の女将さんで、坂本龍馬の妻となったお龍さんとは
当時はここ寺田屋の女中さんだったようですわ。
1866年(慶応2年)1月に仕事を終えて風呂に入っていたお龍さんが
奉行所の捕手が囲んでいるのに気がついて裸のままで2階へ上がり
坂本龍馬に危険を知らせたという有名なエピソードがおますやろ。
捕手たちは、なにせ北辰一刀流の使い手だと言うのでへっぴり腰で応戦
坂本龍馬はピストルを撃ちながら脱出に成功したそうでんな。
(寺田屋の前 宇治川の派流)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この川は改修されながらも豊臣秀吉が伏見城を造った当時の外堀の一部だそうですわ。
この画像の右手の方へ坂本龍馬は逃れて約500m先の材木小屋に隠れたようですな。
近くの薩摩藩邸の伏見・留守居役が船を出し助け上げて藩邸へ迎え入れたようですわ。
薩摩の留守居役は奉行所の引渡しにも応じず、後に寺田屋のお龍さんと一緒に
薩摩へ逃がしたのが、最近は日本初の新婚旅行だと言われてまっしゃろ。
(寺田屋敷地内の 坂本龍馬銅像)
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ほな~ ここから歩きながら伏見奉行所跡の方へむかいまひょ。
(伏見 龍馬通り)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
坂本龍馬が潜伏していた辺りだったそうでこんな名前を付けたようでっせ。
近くには土佐藩邸も在ったようで脱藩した坂本龍馬も万一の場合は同志の居る
土佐藩邸へ逃げ込むことも考えていたんでっしゃろか。
江戸時代後半には京都の洛中に諸藩の藩邸が多くできて来ましたが
元々は、ここ伏見にしか諸国の京都藩邸は置けなかったそうですわ。
伏見は京都には近いけど京都(洛中)ではないちゅうことでっせ。
(伏見 土佐藩邸跡の石碑)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
江戸幕府は伏見から山科追分を通って草津宿から東海道か中山道を通って
江戸と西国を参勤交代することと厳しく定めていたそうだっせ。
天皇の居られる京都洛中には近寄らせないというのが、大方針で江戸時代初期から
ここ伏見に奉行所を置いて西国大名の監視と大坂~京都間の物流を把握したそうな。
普通の遠国奉行は旗本の3千石~5千石クラスが任命されるそうでっけど
ここ伏見奉行所だけは譜代の1万石~2万石の大名が役職に付いたそうですわ。
江戸幕府がいかに京都と朝廷に接近する西国大名を警戒したかがわかりまっしゃろ。
(伏見奉行所跡 石碑のみ)
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現在は京都の市営住宅の敷地になり石碑しか残っていませんな。
古い絵地図などを見れば石垣が積まれて小さい城郭のような建物だったようでっせ。
(御香宮 一の鳥居) (正式には御香宮神社)(ごこうぐうじんじゃ)
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画像からでも登り坂になっているのがわかりまっしゃろ。
この道は豊臣秀吉が伏見城を造ったときに出来た大手筋通りと言いまんねんで。
今でも伏見では一番の繁華街がこの画像の反対側に商店街でおますんや。
この大手筋通りを登りきったら明治天皇と皇后の御陵が在る昔の伏見城本丸ですわ。
(御香宮神社 ごこうぐうじんじゃ)(表門) (国の重要文化財です)
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1622年(元和8年)水戸の徳川頼房公(水戸黄門様のお父上)が
伏見城の大手門を拝領したのをここへ寄進したという立派な建造物だっせ。
徳川さんの天下が定まり豊臣秀吉の影が残る伏見城を徹底的に取り壊したそうな。
この表門を通して見える大手筋通り側には伏見奉行所の北門があったそうですわ。
(御香宮神社境内の 石碑)
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1868年(慶応4年)旧暦1月3日にこの神社の境内に薩摩藩の軍勢が約800人
集結し南側の伏見奉行所とにらみ合いの形となったそうな。
伏見奉行所には大政奉還で京都の治安警備を解かれた会津藩と新選組が大坂から
ここ伏見奉行所まで戻ってきていたそうですわ。
こちらも兵力が約1000人と言われ、もし戦いが始まればここ伏見が主戦場になると
双方が考えていたようでっせ。
(御香宮神社境内の 御香水) (伏見の七名水の一つ)
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薩摩軍は800人の軍勢の水を確保する為この神社に陣地を構えたんでっしゃろな。
この名水は平安時代に良い香りがすると清和天皇さんが「御香水」と名前を付け
神功皇后と応神天皇をお祀りするこの神社の名前の由来にもなったようだっせ。
伏見でお生まれになった徳川御三家初代の義直・頼宣・頼房公はおさん方ともに
この「御香水」を使って産湯をされたと伝わっているそうな。
だからこの神社の本殿を修復すると時には尾張・紀州・水戸の御三家から寄進を受け
氏子たちの寄付金と合わせて伏見奉行所が執り行うのが規則だったようでっせ。
ところで~ ここが主戦場になるとの予想が外れて鳥羽街道を大坂から北上した
幕府軍約1万5千人が「討薩の表」という文書を持って将軍が上洛する先陣を勤め
鳥羽街道の鴨川に架かる小枝橋で薩摩軍に止められてしまうんですわな。
通せ~ 許可がないので通せない~ こんな押問答があったようでっせ。
幕府軍は約1万5千人だから5千人足らずの薩摩・長州勢は道を開けると考えたようでんな。
普通は軍勢を左右に展開するのが基本でっけど、それもしなかったので夕方になり
薩摩軍の砲兵隊が幕府軍に大砲を打ち込んで戦闘開始となったようだっせ。
この鳥羽街道での大砲の音を聞いた伏見・薩摩軍の大山弥助(後の元帥大山巌)が
御香宮神社の東側高台から同じく大砲を伏見奉行所に向けて発射したそうな。
これが命中して伏見奉行所は炎上焼失してしまったそうですわ。
(伏見 亀三楼の柱に銃弾の跡)
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この弾痕は鳥羽伏見の戦いに際し焼けずに済んだ料亭の玄関横の柱に
今でも残っていて店主の説明書きが添えられていますな。
亀三楼は薩摩軍に食料を差し入れしていたので焼き討ちに合わなかったとか
そんなことを書かれてる本もおますけど。
この辺は新選組の土方歳三を隊長に永倉新八をはじめとする約150人が刀と槍で
薩摩軍の小銃隊に応戦し一時は1kmぐらい先の墨染辺りまで押し返したそうな。
でも刀と槍では勝ち目がなく翌日の1月4日になって土佐藩や長州藩が参戦し
錦の御旗が翻ったとの噂もあって会津藩と新選組は宇治川を下って
淀城方面へ撤退したそうな。
(伏見の 京町通り)
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この道は北へ上ると京都の南座の辺りを通り大原方面へ抜ける道なんですよ。
この辺りも鳥羽伏見の戦いでは街並みが全て焼け落ちた処だそうな。
特に3日の夜から4日にかけての激しい市街戦で伏見の南半分の街がほとんど
焼けてしまい伏見の薩摩藩邸も土佐藩邸も多くの酒蔵も焼失したそうですわ。
伏見が復活するのは明治時代になってからになるそうですわ。
(幕府軍が伏見から撤退した宇治川の右岸) (左にかすかに男山が見えます)
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最終的には淀城に立て篭る予定の幕府軍は家老の田辺権太夫に城門を閉められ
男山から橋本あたりまで撤退したようでんな。
時の老中で江戸にいた稲葉正邦は譜代の名門なのにどうしたんでしょうね。
翌5日には淀川の対岸に居る津の藤堂藩が男山に大砲を打ち込んで寝返るは
広島の浅野家や鳥取の池田家までが朝廷方に加わり勝敗が決してしまいましたんや。
考えたら幕府軍は鳥羽街道だけじゃなく竹田街道や西国街道方面にも軍勢を分け
兵力の少ない薩摩・長州勢に対応する知恵がなかったちゅうことでっしゃろな。
主戦場の鳥羽街道で行軍の縦隊のままで応戦してほとんど壊滅的な被害を出した
大目付・旗本滝川某では1万5千人の兵力を指揮する能力がなかったんでしょうな。
そのあげくに翌6日には総大将の徳川慶喜以下の幹部が船で大坂から江戸へ
敵前逃亡するようじゃ徳川家康公も草場の陰で泣かれたことでしょうね。
長くなりましたので、次回は小堀遠州ゆかりの石庭などを紹介しまひょ。
ほな~ 今日はこれで さいなら~
桜田門外の変のようですから、
その予備知識として、大層勉強になりました。
有難うございました。
この当りが少し複雑ですので、助かります。
興味に駆られてのことだとは思いますが。
おかげさまで楽しませていただいています。
伏見の寺田屋は欠かせませんね。
お登勢さんが神さんに、笑わしますが、これも町興しで、良いんじゃないですか・・・・
一応、さらっと読ませていただきましたが、熟読の必要があると思われます。
しかし、あっという間に燃えそうな建物が、よく残っていますよね。さすが京都ですね。
そこには薩摩の船宿…寺田屋が~公武合体推進に~
坂本竜馬も欠かせぬ歴史上に人物に
幼い頃の泣き虫洟垂れ小僧が~千葉道場で北振一刀流を
剣の道では正に天才! それでも人を切ることなく~切られ?
倒幕でも違った策を~商業交易の時代
〔云う人なら~小泉同様に変人という人も!〕
また、ここまで調べるにはかなり歩いたんですね~。
家のかみさん大の会津のファンなんです、特に白虎隊には、自分だけ生き延びたと松平容保会津藩主には今でも怒っています。
かみさんまた読ませてもらいますと海苔巻きを作りながら言っています。
会津は京都守護職として頑張ったのに孝明天皇が崩御されて立場が逆転してしまったようですな。
でも幕府の為に最後まで戦ったのは会津なのに明治になってからは一番の悪者にされてしまった感じですね。
たった4日間の鳥羽伏見の戦いだけで薩摩や長州に負けて倒れてしまったのかが不思議ですね。
将軍・徳川慶喜が優柔不断だっただけで滅亡したとは思えないので凄く興味があるんですけど。
倒幕なんて考えられない時代でしたよね。
島津久光も天皇の支持を受けて勅使と一緒に江戸へ下り
幕制改革を提案するまでは良かったんだけど
生麦事件を起こして英国と戦争をする備えの為に鹿児島へ戻らなければならなくなって
京都の表舞台から退場することになったようですな。
それとやはり公武合体を支持した孝明天皇の崩御が歴史を大きく変えてしまったんでしょうね。
やはりアメリカの空襲がなかったお陰でしょうな。
でも応仁の乱で京都は廃墟になりましたので平安時代の
建造物は醍醐寺ぐらいにしか残っていませんね。
古さではやはり奈良の方が一枚上なのが現状ですかな。