自分を見つめて行く作業は確かに辛いときがあるけれど、人生の中でここでしかできない、というタイミングがある。そう思えるならば、それは続ける価値があると思うな。それをやるなら、一人でなくて人の手を借りながら。認知の歪みも分かるから。
カリフォルニア、猛暑…!/ 米南西部で猛暑 加州で週末に50度超えの予報 cnn.co.jp/usa/35034036.h… @cnn_co_jpさんから
いつも、富士山の姿を見るたびにああ、本当に霊峰だなあと思う。富士山が世界遺産に登録されて、今年は例年より登山する人が増えると思うけれど、ぜひ浅間神社にお詣りしてからにしてほしいな。聖域に踏み込むには、それなりに礼を尽くす必要があると思う。
自然を神として畏怖し、崇めることは、ヨーロッパではないことだったよな。ヨーロッパでは自然は制圧するものだったはず。そういう歴史があったうえでの我々の身体を考える。
自然は畏怖すべきもの。
どんなに人間の文明が発達しようとも
私たちは自然には勝てない。
そして自然は神と同じく気まぐれで
破壊的な力と豊穣の
両側面をもたらしてくれる。
このちっぽけな国で、それがどんなに大きなものかを分かっていたからこそ、古来からそれに祈っていたのだ。
実母を殺害し、見ず知らずの女性を殺害した山地被告についてのルポ。/『死刑でいいです』モンスターと呼ばれて honz.jp/27947
『あそこの土地は神様が居るというから、踏み入れてはならない』というような信仰が、ただの迷信とされて、何者かの所有となって、開発されて、信仰が失われたり、生態系が崩れたり、ということはあるので。 迷信でも何でもなく、その土地の様々なバランスをとっていたのは、神様の存在だったりする。
水源信仰でも山岳信仰でも、自然崇拝というのはそういう機能が働いていると僕は思う。いわば、大いなる恵み、大自然のバランスを次の世代にも保つ為の安全装置でもあると思う。 祀りはその機能を保ち、相続する方法として最適な方法だと思う。
政治も教育も医療も行政も文化活動もなんでも、それが生み出す金銭的利益を基準にして制度の適否が判定される傾向のことです。選挙の前に「ほかのことはいいから、まず経済政策を」というようなことをメディアは書き立てていますが、これが「過経済化」の典型的症候です。
過経済化する社会に対する最後の砦として「生身の身体」が残るという話、逆に言うと生身の身体にぶち当たるまで「過剰な経済化」が恐ろしい勢いで進んでいくのだろうという展望には、「数字」という道具の発明にまで遡ることのできる人間のあまりにも深い業を見る思いがしました。
@benten963 はい、表層と深層では全く違いますね。深いところでは自分で意識できていないことがほとんどで。
富士山の世界遺産登録はおそらくめでたいことなんだろうけど、富士山が登録されたのはもちろん、信仰とか美術とかの話があるからなんだよね(でもその美術も信仰あってこそ)、今更言うまでもなく。でも現実的な話として、今、富士山に登る人の中にどれだけ、信仰心を抱いて登頂する人がいるだろうか。
そういう意味で、正直、なんというかねぇ、結局、観光目的の手段と化している世界遺産登録…。無理矢理過ぎるというかねぇ…。登録前に、かつて信仰の山でしたではなく、現役で信仰の山ですっていうことを実現させなきゃダメだったんじゃないの、とか思ったりして。