歌稿から私が抜き出したものが4つあります。冬なのにしっかりとした雨が降る朝ですが、これを見ていただくことにしました。
563 寂光(じゃっこう)の浜のましろき巌(いわ)にしてひとりひとでを見つめたるひと
岩手の宮古市の浄土ヶ浜という名所があります。ここに賢治さんの歌碑があるそうで、それは、
「うるはしの海のビロード 昆布らは寂光のはまに 敷かれひかりぬ 宮沢賢治」という歌が書かれているそうです。昆布が浜で干されている様子と「海のビロード」という比喩と、おもしろいですけど、ご挨拶の歌みたいで、味わいが足りない感じです。
563番は、下の句が面白いのです。「ヒトりヒトでをみつめたるヒト」という「ヒト」を強調していて、賢治さんらしいというのか、寂しい光の浜で、何をしているのか動かない人がいて(それは賢治さんなのか?)、じっと打ち上げられたヒトデをいつまでも見ている人がいた、と詠んでいます。
まさか、ノンフィクションではないと思うし、賢治さんらしい一つの物語なのだと思われますが、そんなことをしている人間になってみよう。そうすることで何かが見えてくるよ。私はそういう生き方がしたいんです、という気持ちが伝わって来るようです。
大正6年(1917)の7月のところにある歌なので、当時岩手県の東海岸視察団というのに加わって、20代の賢治さんは海岸地方をめぐったそうで、その時の挨拶歌になるんでしょうか。
592 夜だか鳴きオリオンいでてあかつきもちかくお伊勢の杜(もり)をすぎたり
593a あけちかくオリオンのぼり鷹なきてわれはお伊勢の杜をよぎれり
盛岡高等農林学校の修学旅行で東京、京阪地方を旅したことがあるそうです。伊勢神宮にも訪ねたことでしょう。内宮近くで宿泊したのかもしれません。
その時に、夜明けころ、よだかが鳴く声を聞いたそうです。ほら、あの「よだか」ですよ。後年のモチーフをもう見つけていたんです。ちゃんとよだかの声を聞き分けられる耳を持っておられた。
どうしてこうステキなアンテナを持っておられたんでしょう。私はもちろんそういうものは持ててないけど、二十歳の賢治さんに負けないように、少しでもそういうものを自分に取り付けていけたらと思います。
ただ少し歌の材料が多すぎて、少しだけドッチラケという感じもします。今、私は伊勢神宮に来たんだよ、すごく神聖な時間と空間にの中にいるよ、という気持ちの高まりがあふれすぎている感じです。
621 さだめなくわれに燃えたる火の音をじつと聞きつゝ停車場にあり
いつの旅なのかわかりませんけど、じっと機関車がまるで生き物のように、動いていないのに「息している」ようなしぐさを見せるのを、観察している賢治さんの姿が浮かんできます。
旅ごころいっぱいの私が見たら、ものすごく刺激される歌です。
これも燃えているのは賢治さんなのか、それとも機関車なのか、少し語順がおかしいのではないか、と思うところもあります。でも、下書きですから、イメージ全開でどんどんことばを走らせねばならないから、こんなもつれるところがあってもいいのかもしれません。