甘い生活 since2013

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それでも人は裏切られ……中歴65

2018年10月09日 21時55分55秒 | 中国の歴史とことば

 冒頭から引用で申し訳ありません。

 曾子(そうし)BC505~435 中国、春秋時代の学者。名は参。字は子輿。南武城(山東省)の人。親孝行で有名で、「孝経」を著わしたと伝えられる。とくに孝を重視し、儒教の根本たる仁への道は孝悌にあるとし、孝は徳の本、すなわち全ての道徳を孝をもって説明しようとした。道徳の主観的方面を重んずる彼の思想は、子思によって受け継がれた。〈コンサイス外国人名辞典 改訂版 1994〉

 ネットからではなく、事典をそのまま写させてもらいました。昔は、こういう本を持っていることが何となく心の支えになったんですけど、今は何でもスマホやPCになってしまいました。だから、辞書・事典は売れなくなります。当然です。辞書や事典を持たなくても、たいていの情報は親指で取り出せることになっています。

 それでも、私は、たまにこうした事典を開いてみるとホッとします。ああ、こんな人がいたんだ、あれ、他によく似た名前の人おらんかった、とか事典で遊んでしまうのでした。とても贅沢な遊びです。若い人は辞書で遊ぶという贅沢はわからないだろうな。残念ながら、最近は字が見えにくくなって、すぐに放り出してしまうかもしれないですけど……。

 こうして写してみると、曾子という人の「孝」というのものの大切さと、孔子先生の教えを次の時代に伝えた大事な役割を担った人だったのだ、というのが分かります。論語には11回も出てくる重要人物でもあります。

 論語はまたの機会にして、とにかく親孝行で有名な曾子(そうし)さん、またの名前を曾参(そうしん)さんがいたわけです。戦国時代の人々には有名な方だったんでしょう。

 この人をネタにしたことわざがありました。


75【曾参(       )を殺す】……同じうわさが繰り返されると信じるようになる。類語として「市に虎あり」「三人市虎(しこ)を成す」などがあります。

 曾参(そうしん)さんのお母さんが、魯の国の費という国に住んでいました。息子も立派な人だから、母親も子どもを支える働き者だったのでしょう。コツコツと機織りの作業をしていたそうです。ギッコンバッタン経糸・横糸をつなぐ作業をしていたわけです。だから、ある程度集中しないとできないと思われます。

 ふたりの人がお母さんの所へとんでもない情報をもたらしました。お母さんはアホらしくて聞き流していたそうです。「何を言うとんのや」と思ったでしょうか。まあ、関西弁ではないですね。

 一回目は聞き流し、二回目は「まさか、そんなことがあるものか」と強く拒否して、三回目で聞いた時には、もう駆け出していたというのです。これが母の愛というものでしょうか。

 三人もの人が何度も何度も情報を伝えてくれば、どんなに信じている母親でも、しかも息子はものすごく親孝行で、絶対にそんなことはしないとわかっていても、何かの拍子でそんなことに巻き込まれたのかもしれないとおもったことでしょう。

 実際は同姓同名のとんでもない人がいて、その人がとんでもないことをしたそうで、それで名前だけを聞いた人たちが、その母親をびっくりさせよう、不安にさせてみよう、あの高慢な母親をうろたえさせてやろうとか、いろんな目論見をもってやってきたことでしょう。

 実際を確かめたお母さんは、「なあんだ、うちの子とたまたま同じ名前の人がいて、その人が起こした事件じゃないの。ホントに世の中の情報って、ウソばっかりやなあ。」と確信したことでしょう。心配そうにもたらされる情報は、たいていその人があわてふためく姿を見たいから、そういうぶさまな様子が見たくて、他人のイジワル根性から持ち込まれるものがほとんどだということです。

 でも、どんなに強い信念も、三人目のウソで覆ってしまう、それくらい強い信念・信頼も、情報が重なると崩れてしまうという真実・真理を伝えています。


 さて、この「ことわざ」を利用した人が秦にいました。

 秦の武王の時代、謀臣の張儀さんや魏章さんが秦を去ったそうです。王が変わるとスタッフが総入れ替えされることが続きます。たいてい新しい王は、先代の王から望まれて王になったのではなく、権力闘争を経て王になっているので、今までの政治体制の否定からスタートしないといけなかったんでしょう。

 甘茂(かんも・かんぼう)という人が登用され、左丞相という地位まで引き上げられたそうです。でも、まだまだ完全な地位を得たわけではありませんでした。

 BC308年、、甘茂さんが武王さんにこんな提案をします。「私が魏にお使いに行き、秦と一緒に韓を討つ約束をさせてきましょう」……この時は、韓が邪魔であり、その隣国の魏は利用すべき国であったようです。国のスタッフは外交的手腕と軍事的手腕、政治的力量など、いろいろな点でアピールしなくてはなりませんでした。

 とりあえず、魏との交渉は成立し、あとは韓を攻めるだけです。でも、ここでも単純に攻めるのではなく、効率的で成果の上がる侵略をしなくてはなりませんでした。そのためには時間が必要でした。

 甘茂さんは王様に言いました。
 「私は王様のために、韓を攻略してまいります。けれども、攻めてすぐに勝利、領土の拡大という簡単な勝利は得られないと思っています。おそらく時間もかかるはずです。

 王様、孔子さんの弟子で曾参(そうしん)という人がおられたようです。わが国では孔子さんの教えをあまり認めておりませんが、一応、過去の一人の思想家としては一通り名前は知られている人たちです。

 この曾参(そうしん)と同姓同名の男が罪を犯し……。」ひととおりことわざの説明をして、

 「私がいない間、王様にどれくらい私の悪口を言う者たちが現れるでしょう? それはもうたくさん私のことを不安視する人たちは出てくるでしょう。その時、私は王様に信頼していただけるのか、いささか自信がないのでございます。どうか、私を、どんなに非難されたとしても信じていただけますか。」

 武王さんは、甘茂さんを信じることを誓ったそうです。それでも、やはりたくさんの非難する者たちの言葉に心がグラグラしたそうです。でも、この時はたまたま信頼し続けた。

 数ヶ月の遠征の後、甘茂さんは韓の土地を奪い、凱旋したそうです。途中でぐらついた時、甘茂さんに「あの時のおことばをお忘れでないですね」と指摘され、何とか踏みとどまったそうで、おかけで甘茂んは何とか結果が残せたそうです。

 彼らから二百年前の人の話ですけど、立派にことわざとして機能したんですね。


 今、私たちはどれくらい部下(仲間)を信じ、その不在の間を支えることができるのか、とても危うい気がするんです。ほんの一瞬でもその場を離れたら、すぐに非難の嵐になったりすることかよくありますよ。

 むしろ、昨日の友は今日の敵なんて、しょっちゅう繰り返されている気がします。

 だからこそ、二千数百年経過した今も、このことわざを持ち出して、自分のゆれ・ブレを無くそう!

 そう誓うためのことわざになっているようです。

★ 答え 75・人 そうしんひとをころす


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