甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

暖冬馬堤歩行 その1

2020年01月30日 21時45分03秒 | わたしと大阪

 蕪村さんの図録を持っていました。いつ買ったんだろう。記憶は不確かです。そして、どこで何を見たのか、それさえあやふやです。なのに、うちの本棚の中に大きな分厚い図録がありました。

 「蕪村 その二つの旅」とあります。若いころと、年を取ってからの旅ということなのか? それはあり得ます。大坂を出てから、関東に行き、三十代くらいまで関東から東北などを旅した時代、そこから原点回帰で京都に出て、お母さんのふるさと丹後地方にも行き、そこでお母さんをしのび、「谷口」から「与謝(地名にもあります)」を名乗るようになった。やがて、京都を拠点に活躍した人生後半、その二つの旅というわけなんですか?

 チラッと読んでみたら、外面的な旅と内面的な旅という二つということなんだそうです。少し分かりにくいし、どれが内面で、どれが外面なのか、何だか無理矢理のテーマという気がするなあ。

 2001年の5月3日、大阪の天王寺の市立美術館で買ったそうで、こんなに分厚いのに千円だったらしい。かなりお買い得です。でも、よく見たら、天橋立図とか、いくつかの有名作品は展示されてなかったようです。

 これから、機会があるたびに、少しずつ紹介していこうと思います。私と蕪村さんとの関係ももう少しだけ深めていかないといけないなとは思うのです。

 何十年も生きてはきたけれど、淀川の堤防に立つのはめったにありません。もっと河口の方までクルマで出かけたことが一度あるのと、高校の時にあと一回くらい。

 あとは、電車や道路の上から、見下ろす淀川の堤防でした。

 それなのに、どういうわけか、私は堤防の下まで来ていました。ここを上がると、昔ポンポン船で対岸の淀川区まで行ける渡し船があったそうです。昔からの町には、そうした名前の付いた渡しがあるものですが、ここは「平田の渡し」というのがあったそうです。

 でも、何十年か前に、橋がかけられて、渡し船は廃止されたという話でした。

 何もないかもしれないけれど、船はどれくらいの幅のあるところで運営されてたのか、その空気感を知りたくて、私はもう少しで堤防に立とうとしていました。

 いつもなら、実家に行ったら、帰りは奈良、というパターンが多かったのですけど、この日は、妻から「奈良には行ってはいけない」という禁止令も出ていました。

 だったら、歩いたことも、見たこともなかった淀川の川辺に行ってみようと思ったんでした。


 豊里大橋が見えました。橋の上を歩いている人たちも見えます。河原では野球をしているみたい。対岸は淀川区で、そちらに渡るためにポンポン船が出ていたのか。

 水際まで行きたいけど、この時はほんの百メートルくらい歩いたら、水際まで行けたと思うんですけど、川を下っていくことを優先して、淀川左岸の高層ビル群の方へ向かって行きました。

 そこは大阪工業大学があり、その付属の高校などもそこに集結していました。そちらの河原は、サッカーやラグビーなど、大学・高校との関連のスポーツが行われています。選手たちは若いのか、オッチャンなのか、社会人なのか、それさえはっきりしないけれど、そんなことはどっちだってよかった。みんなが河原でのんびりスポーツしているのを見せてもらうだけで、私も頑張ってもっと堤防の上を歩いていこうという気になれたのです。


 次の橋は、菅原城北大橋というそうで、こちらも何年か前まで有料だったそうです。それですぐに大阪の無計画というのがシンミリします。

 大きな川は確かにそこにあるのです。そこで分断するわけにはいかないのだから、南北に移動できるためにいろいろな道を確保しなくてはいけないのに、鉄路も道路もほとんどなくて、昔は枚方の方まで行かなくては対岸に渡れず、それとももっと下流まで行って対岸に渡るしかありませんでした。

 お金もないし、土地もないし、必要もないし、みんな南北でつながりたいなんて思ってないだろう、という慢心と無策のせいで、ながらく分断されていた淀川の北と南、それをつなぐ渡し船が細々とあった。やっと橋ができたと思ったら、お金を払えという。なんとまあ、大阪って、つながりが悪かったんですね。

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。