甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

菅笠日記15 多武峰のヤマザクラ

2019年02月26日 20時57分25秒 | 宣長さんの旅

 多武峰を早く過ぎて、吉野に行かなくちゃ! 宣長さんはゆったりしすぎです。そういえば、旅しながら、みんなで歌でも詠めばいいのに、そういうことはしないんですね。それが芭蕉さんとは違うというのか……。

 でも、芭蕉さんの旅はかなりフィクションだし、載せられた句も芭蕉芸術に合わないものはすべて排除されているし、「古事記」のふるさとを歩くのが目的の宣長さんとはめざすところが違っていました。

 御廟(ごびょう)の御前(おんまえ)は。やゝうちはれて。山のはらに。南むきにたち給へる。いといかめしく。きらきらしくつくりみがゝれたる有様。めもかゞやくばかり也。十三重の塔。又惣社など申すも。西の方に立ち給へり。

 多武峰は、藤原鎌足さんをおまつりする神社がありました。そのご廟の前は大きなスペースを取られていて、山の斜面に南を向いて立てられています。ややいかめしく、大仰な様子の建物ですが、鮮やかで立派な建物です。十三重塔や惣社なども本殿の西側に立っているようでした。


 すべて此所。みあらかのあたりはさらにもいはず。僧坊のかたはら。道のくまぐままで。さる山中に。おち葉のひとつだになく。いといときらゝかに。はききよめたる事。又たぐひあらじと見ゆ。

 こちらの建物は、本当にキレイに管理されていて、どこも手の抜いたところがないのです。お坊さんたちが生活するところ、境内のあちらこちらの道、山の中にあるお堂など、落ち葉一つなく、本当に丁寧に掃き清められていて、こんなところはよそでは見られないことだろうと驚くばかりです。


 宣長さんがこちらに来られた時、それはそれは丁寧に管理されていたようです。私が行ったのは何年か前のゴールデンウイークのころで、紅葉のシーズンはたくさんの観光客が来るところですが、そんなにお客さんはいなくて、静かでひっそりとした山中に、落ち着いた宗教空間があるなあという感じはしました。

 ただ、山を上り下りしなくてはならなくて、境内を楽しむのはイマイチできていなかったかもしれません。もう少し余裕を持ち、自分のクルマで、ここだけを目当てにして、ここでしばらく過ごす気分で来れたら、もう少しまわりを見る余裕ができたかもしれません。とにかく有名な十三重塔を写真撮らなくちゃ! とか、いつものスケベ心でゆとりなかったです。それから、もう何年も遠ざかっている。


 桜は今をさかりにて。こゝもかしこも白たへに咲きみちたる花の梢(こずえ)。ところからはましておもしろき事。いはんかたなし。さるはみなうつしうゑたる木どもにやあらん。一(ひと)やうならず。くさぐさ見ゆ。そもこの山に。かばかり花のおほかること。かねてはきかざりきかし。

 桜は今は盛りと咲いていました。ここにも、向こうにも白く咲き誇っている花のこずえ、山全体を見下ろすようにして見れば、もうその美しさはたとえようがありません。

 吉野に到着していないのに、私たちは多武峰で桜の饗宴を受けていました。

 それにしても、これらはこういう景色になるように、移し植えられた木ではあるようで、その様子は様々で、多種多様の桜が咲いています。桜と簡単に言ってしまうのが申し訳ないほど、桜の木がそれぞれの持ち味で咲いているようでした。みんな違ってみんないいのです。

 こんなに桜がたくさん咲いているなんて、聞いたことはなくて、多武峰が桜の名所であるというのを再認識させられました。見事な桜でした。


  谷ふかく分けいるたむの山ざくらかひあるはなのいろを見るかな。

 歌を詠みました。谷深く山の中に分け入り、分け入りやってきた多武峰、そこで山桜を見ることができて、それはそれは見事な、今を盛りに咲く花の色を見つけました。


 鳥居のたてるまへを。西ざまにゆきこして。あなたにも又惣門あり。そのまへをたゞさまにくだりゆけば。飛鳥(あすか)の岡へ五十町の道とかや。その道のなからばかりに。細川といふ里の有りときくは。南淵(みなぶち)の細川山とよめる所にやあらん。又そこに。此たむの山よりながれゆく川もあるにや。

 鳥居が立っているところをそのまま西に通り越していくと、そちらにも惣門がありました。その前をまっすぐ下っていくと、明日香の丘に五キロでたどりつける道になるということでした。

 その道の真ん中あたりに、ホソカワという里があって、その昔、中大兄皇子と中臣鎌足が出会ったという南淵請安(みなぶちのしょうあん)の家があったあたりになるのでしょうか。渡来人の学者として古代の人々に最新の知識を伝えた人が住んでいた土地になるのですね。

 そこに川が流れていて、その上流に今私の入る多武峰があります。このまま下っていけば、飛鳥時代の歴史のふるさとに踏み込めるわけですね。

 何だか、それが本当のことなのか、作られたお話なのか、たぶん、歴史の中で本当に会ったことなんでしょうけど、あまりに遠くて、実感というものが湧いてこないですね。


 【萬葉九に うちたをりたむの山霧しげきかも細川の瀬に浪のさわげる】たづねみまほしけれど。えゆかず。吉野へは。この門のもとより。左にをれて。別れゆく。

 万葉集の九巻に、多武峰の山霧がとても深くて、そこから流れる細川の面には波がざわめいていることでしょう、という歌がありました。その「細川」というところを訪ねてみたい気もしましたけれど、回り道なので行けませんでした(寄り道ばかりもしていられないのです!)。

 吉野には、この門からまっすぐ行かずに、左に折れて南をめざしていくのでした。

 やっと多武峰通過です!

 表紙は私のヘボ写真はやめて、ネットから多武峰の山桜の画像をお借りしました。それから下のはすべて私のヘボ写真でした。ラストの丹生大師という近所のお寺の回廊、これが昨秋だったか台風で全部壊れてしまったんですよ。少しずつ直してはいるけど、昔の姿に戻るのはいつなんだろう。この前もここには行きましたけどね。

 さあ、花粉のシーズンが終わったら、多武峰のサクラを見に行きたいですね。今年こそ、新しいクルマで撮りに行きます!(希望的観測)


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