すごい昔に貼り付けて放置していたものを、書き直してみます。
馬より下り、門に立ちて見れば、ありとある者、獣、鳥を殺し、もろもろの悪しき事をつどへたり。人を招きて、「魯の孔子と言ふものなん参りたる」と言ひ入るるに、すなはち使帰りていはく、「音に聞く人なり。何事によりて来れるぞ。人を教ふる人と聞く。我を教へに来れるか。我が心にかなはば、用ひん。かなはずは、肝膾に作らん」と言ふ。
孔子さんが馬から降りて、盗賊たちの様子を見ました。彼らは思い思いにそこらじゅうであれこれ食べているようでした。鳥や獣の肉を食べ、お酒も飲んで大騒ぎしていました。
その中でこちらに気づいたものに、「魯の国の孔子という者が来ました。どうぞ、あなた方の頭領にお伝えくださいませ。」と丁寧に自己紹介しました。
取り次ぎの男が孔子さんの来訪を告げた後、頭領は言います。
「世間で評判の男ではないのか? 何をしに来たのだろう。人にあれこれ説教するそうじゃないか。オレ様に何を教えに来たというのか。少しでも骨のある奴ならいいが、つまらないヤツであれば、その場でブッ殺してしまおう。」
などいう恐ろしいことを言うのです。
孔子進み出でて、庭に立ちて、先づ盗跖(とうせき)を拝みて、上りて座に着く。盗跖を見れば、頭の髪は上ざまにして、乱れるたること蓬のごとし。目大きにして、見くるべかす。鼻をふきいからかし、牙をかみ、髭をそらしてゐたり。
孔子さんは、盗跖さんの前に出ました。その姿は髪はモジャモジャで、ギョロ目で大きな鼻、歯をギラギラさせ、ヒゲもモシャモシャでした。
盗跖が言はく、「汝(なんじ)来たれる故はいかにぞ。たしかに申せ」と、怒れる声の、高く恐ろしげなるをもちて言ふ。孔子思ひ給ふ、かねても聞きし事なれど、かくばかり恐ろしき者とは思はざりき。かたち、有様、声まで、人とはおぼえず。肝心も砕けて、震はるれど、思ひ念じていはく、
盗跖さんは言います。「お前は何をしに、オレのところへ来たのか、話してみろ」と、
孔子さんは、かねてから聞いていたことで、そんなに恐ろしいという気持ちはありませんでした。姿かたち、何もかも人間のようには見えませんでした。恐ろしさもありましたが、心を強く持って言います。
孔子さんは、かねてから聞いていたことで、そんなに恐ろしいという気持ちはありませんでした。姿かたち、何もかも人間のようには見えませんでした。恐ろしさもありましたが、心を強く持って言います。
「人の世にある様は、道理をもちて身の飾りとし、心の掟とするものなり。天をいただき、地を踏みて、四方を固めとし、おほやけを敬ひ奉る。下を哀れみ、人に情をいたすを事とするものなり。しかるに、承れば、心のほしきままに、悪しき事をのみ事とするは、当時は心にかなふやうなれども、終り悪しきものなり。さればなほ、人はよきに随ふをよしとす。然れば申すに随ひていますかるべきなり。その事申さんと思ひて、参りつるなり」と言ふ時に、
人間の世界というのは、道理や筋道が大事になるものでございます。それらが心の掟、決まりごとみたいになります。天から地、地から四方、みなさん世の中の決まりごとを守っていきます。下のものには憐れみと情けをもって接していくことになります。
しかるに、私の聞きましたところでは、あなたはわがままに好き勝手なこと、悪事をはたらき、いろんな人に迷惑をかけているそうです。そんなことでは、きっと人生の終わりに辛いことが待っていますよ。人はみんな、よい人生の終わりを迎えるために、なるべく悪事をせずに、心がけるものなのですよ。
盗跖、雷のやうなる声をして、笑ひていはく、「汝が言ふ事ども、一つも当たらず。その故は、昔、堯、舜と申す二人の帝、世に貴まれ給ひき。しかれども、その子孫、世に針さすばかりの所をしらず。
また、世に賢き人は、伯夷、叔齊なり。首陽山に伏せりて飢ゑ死にき。
また、そこの弟子に、顔回といふ者ありき。賢く教へたてたりしかども、不幸にして命短し。
また、同じき弟子にて、子路といふ者ありき。衛の門にして殺されき。
盗跖さんは笑って言います。「お前が言うことは、全く外れている。何も真実を述べてない。
なぜならば、古代の聖王という堯や舜という王様がいたが、その子孫はどうだ。ヤツらは、針のような土地も持たずに、うろたえて歴史の闇に消えてしまったぞ。それが、お前の理想なのか。
伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)という賢人がいたそうだが、二人とも賢すぎるのか、そのまま飢え死にしてしまったというぞ。
お前さんの弟子の願回はどうだ。賢く教えの通りに過ごしたと聞くが、不幸にして死んでしまった。そんな賢いという噂は残ったが、それは幸せなのか。
もう一人、お前さんの弟子の子路という人はどうだ。あまりに直線的な行動をし過ぎて、衛の国の門の前で死んだというではないか。
しかあれば、賢き輩は、つひに賢き事もなし。我また、悪しき事を好めど、災身に来たらず。ほめらるるもの、四五日に過ぎず、そしらるるもの、また四五日に過ぎず。悪しき事もよき事も、長くほめられ、長くそしられず。しかれば、我が好みに随ひて振る舞ふべきなり。
ということであれば、賢い人間というのは、結局、賢くも何ともなかったのだ。オレは悪事を好んでやっている。けれども、特にバチが当たるということはない。褒められても四五日、けなされるのもその程度の時間だ。どんなにひどくても、どんなに素晴らしくても、長くあれこれ言われることはない。だから、オレ様は、自分の好きなように生きていくだけだ。
汝また木を折りて冠にし、皮をもちて衣とし、世を恐り、おほやけにおぢ奉るも、二たび魯に移され、跡を衛に削らる。など賢からぬ。汝がいふ所、まことに愚かなり。すみやかに、走り帰りね。一つも用ふるべからず」と言ふ時に、
お前は木を折って冠にし、皮を衣にしている。世の中を恐れ、慎重に行動しているつもりが、魯の国を追われ、衛にも落ち着くことはできなかった。賢い人間と言えるのか。お前は愚か者ではないのか。さっさとオレ様の目の前から逃げていけ。全くお前の話など聞く気もしないのだ」と言うのでした。
孔子、また言ふべきことおぼえずして、座を立ちて、急ぎ出でて、馬に乗り給ふに、よく臆しけるにや、轡を二度取りはづし、鐙をしきりに踏みはづす。これを、世の人「孔子倒れす」と言ふなり。
孔子さんは、何と言ったらいいのか、ことばもなくて、座を立ち、馬に乗って帰っていきました。よほどビビってしまったのか、二度も轡から足が抜けて、危なっかしい馬の乗りようでした。よほど怖かったものと見えます。
世の人は、このことを「孔子倒れ(くじのたおれ)」と言い、偉そうにお説教しようとして失敗することをこういう風に呼びならわしたということでした。
というふうに、「宇治拾遺物語」には書いてあります。実話かどうかも分からないし、誰かの創作かもしれない。そもそも、孔子さんが馬にのってやってくるというのも何だかあり得ないことで、馬から落ちそうだったという滑稽さを出すために、無理やり馬に乗せられています。
でも、話が通じない人はたくさんいるのは事実で、孔子さんという名前を聞いただけで拒否反応を示す人はたくさんいると思います。