★ 和泉屋 楓さんの絵草紙屋というHPからお借りしてきました。
懐かしいことを思い出しました。もう何十年も前にお勉強して、何十年も忘れていたことがらです。そんな私にどれほどのことが書けるのか、それは知れていますけれど、私なりに書いてみたいと思います。
中国のことばの勉強は、個人的にやっています。唐の沈既済という人の『枕中記』という小説がもとになって、「邯鄲の夢」「盧生の夢」ということばが生まれた、というのはどこかで聞きかじっていました。実は、唐の時代まではちゃんと勉強していなくて、たどり着けてないし、たぶんちゃんとやれないような気がしています。
だから、聞きかじりでも何でもいいから、とりあえず今の段階で書いておこうと、いつものいい加減主義によって書くことにしました。
表紙の絵は、恋川春町という人の『金々先生栄華夢(きんきんせんせいえいえいがのゆめ)』(1775)という黄表紙のラストのところです。主人公が放蕩の限りを尽くし、お家の経営を危うくしたので、勘当されて家を出ていく場面でした。
金々先生日々におごり長じ、今ハ身代もかうよと見へけれバ、父文ずい(「ぶんずい」というのがお父さんの呼び名です。山文とか、川文とか、いろんな略称で呼ばれます)大きに怒り、手代源四郎がすゝめにまかセ、金々先生が衣類をはぎ、昔の姿のまゝにて追出しける。
手代源四郎、はじめハ金々先生をそゝなかし、多く金銀お使わせ、そのあまりハ皆我が手へくすねける。よつて物を盗むことを源四郎とは申すなり。
源四郎「アヽよいざまだ」
黄表紙とは、江戸中期に流行った冊子・草紙のジャンルで、今でいう絵本のようなものです。絵本というと、もっと絵がありそうなものですが、印刷はカラーではないし、木版ですから、白黒ですし、絵本というよりも、当時はやったマンガ的なもの、というんでしょうか。
絵の中にたくさんの文字が書いてあって、残念ながら私には解読できないんですけど、上記のようなことが書いてあるそうです。
お店に拾われた金々先生は、お仕事もしないで、遊郭遊びばかりしていたそうで、それをそそのかしたのは源四郎という手代(番頭さん)で、この人が囲っている女の人とは知らずに、金々先生はその女の人につぎ込んだそうで、おかげで源四郎さんは店のお金を自分のものにすることができた、というので、店の金を横領する人という代名詞に「源四郎」というのができた、という画期的な作品だったそうです。続きまして、
金々先生追い出され、今ハ立よるべきかたもなく、いかゞハせんとあきれはて、途方にくれて嘆きいけるが、粟餅の杵の音ニおどろき、起きあがつて見れバ一すいの夢にして、あつらへの粟餅いまだ出来あがらず。
金々先生は丸はだか、スッカラカンのカーラカラになりました。
「ああ、どうしよう」と嘆いていると、粟餅をつく杵の音が聞こえたそうです。お店で粟餅を注文して、それがまだできていない、ほんの何分かの間の夢であったという夢落ちになっています。
よつて、金兵衛横手うち、われ夢に文ずいの子となりて、栄花をきわめしもすでに三十年、さすれバ人間一生の楽しみもわづかに粟餅一臼の内のごとし」と初めて悟り、これよりすぐに在所(ざいしょ)へ引こみける。
女「もしもし、餅ができました。」
女「もしもし、餅ができました。」
反省の一言。「人間の一生の楽しみも、粟餅一臼のうちのごとし」ということでした。ありがたいオチではありました。
唐の時代の沈既済(しん・きせい)さんは8世紀の人です。そこから18世紀の恋川春町さんまで1000年の歳月が経過しているわけですが、それ以前に能で取り上げられたりしていますから(『邯鄲』という演目があるそうです)、かなり知られたテーマではあったのでしょう。
そして、昔も今も、壮大な夢は繰り返され、権力者も、ごく当たり前の庶民も同様に立身出世を夢見てしまうし、自分の理想の世界を作り出そうとするようです。
そんなのは、他人にははた迷惑なだけなのに、どうしてささやかな自分の世界で、他人に迷惑をかけないで、他人を傷つけないで生きていけないのか、と思うんですが、人というのは永遠に懲りない存在なのです。
『枕中記』という小説の盧生という登場人物も、人という習性ゆえに立身出世を夢見て、やがて失敗します。
唐の時代から千何百年も昔の邯鄲というのは、趙という国の首都でした。黄河流域のまん中くらいにある、いろんな歴史の波が通り過ぎて行った都でした。テレビで見た時は、山深い盆地に都があったようですが、本当はどうなんだろう。その辺の感覚がイマイチつかめないですけど、ひとつの夢を浮かべるにはふさわしい都だったんでしょう。
私は、ものすごく昔、中国文学が当時の江戸文学にどのような影響を与えたか、というのをテーマにしたはずですが、結論は最初から決まっていました。あまりに影響が大きすぎるし、モトネタとして中国の存在は大きすぎでした。
江戸文学は、かなりのものが中国の作品をもとにして、ストーリーも、アイデアも、あれもこれも、みんなコピーばかりやっていたり、焼き直ししたり、すぐれたアイデアは何度も使われたことでしょうし、壮大な繰り返しを人々は求めていたようです。
けれども、自分たちのものにする取り入れ方が自分流であり当世風であれば、人々はそれをつべこべ言わないで楽しんだ、ということなんでしょうか。
だから、江戸文学をリードした人たちは、漢文に親しんだ武士階級のエリートの人たちだった、ということになったと思います。ただのオッサンの私でもわかることなのに、若い頃の私は、わからなかったんですね。
あまりに壮大過ぎる夢を私も追いかけていたのでしょう。結局、何もつかめないで、残念な気持ちだけが残った。空っぽを手に入れてしまった。でも、それでこそ青春の1ページだったのかもしれません。