8月の20日ころの長崎の町を歩いていました。旅で出会った同郷の彼女を探しに来ました。何が見つかったのでしょう。
猫の死骸のような格好をした黒い人間のかたまりが、倒れた貨車の横にいくつも並べられ、戦闘帽の下に茶色にしみたタオルをひさしにして、そのかたまりを一つずつ別の個所に運んでいる男の方がむしろ死人のような顔をしていた。わずか十五メートルか二十メートル離れた地点まで男はなぜ一人でその人間のかたまりを運んでいるのか、この腐った鉄のようになってしまった風景の中でぜんぜん無駄ではないのか。
それはムダではなかったのです。それが、男からの精一杯の供養だったのだと思われます。バラバラで死んだままになっていた人々を、せめて整然と並べてあげて、何かの供養をしたのだと思う。でも、はたから見たら、すべては虚しいように見えたかもしれないけれど、亡くなった人たちを見送るものとしては、何かのカタチにしてあげたかったんでしょう。
仲代庫男(この若者が主人公です)はその男のまるで手足を動かしていないようなのろのろした動作を見ているうちに吐き気を催してきた。
男が黒いかたまりを移している置き場の向こうに三菱製××という文字が白くただれたようにぶら下がり、あの文字は本当は黒いペンキだったのだ、黒い字が原子爆弾で白い火を吹いたのだという思いが、理由なく急に北満(ほくまん)にいるはずの父のことを連想させた。
ソヴエートの戦車が侵入してきたとき、父はどこにいたのか、タコ壺の中で声もたてず火焔放射器で焼き殺されたのではないかという思いが、変に軽くその白いぬけがらのような文字の下にぶら下がる。
ペンキによっては、ものすごく放射能に反応して、勢いよくそこだけ燃えるものがあるようで、恐ろしいくらいの文字の抜け方をしていたようです。
あまりに異様で、そこから次から次と猛火の前のか弱い人間たちへと妄想が広がりました。その炎に燃やされようとしているのは、主人公のお父さんだというではありませんか。ああ、どこにも救いようがない。家も、恋人も、家族も、街も何もかも、燃やし尽くさないことには戦争は終わらないのでしょうか。
そもそも、これは何のための戦争だったのだろう。いや、戦争の意義なんて、疑問に思っても何にもならない。人々はアメリカやイギリスが憎いわけではなかった。中国の人を苦しめたいわけではなかった。ただ、そういうことに気づかずに、政府の言うままに推し進めた結果がこれだったのか。
自らの責任への代価がこれだったのか。
芹沢治子の死が百で、父の死は十というような変に浮き浮きしたものがこの焼けただれた風景の中にはあるのだ。そういえばソ連軍が対日宣戦を布告した時、おれはなぜあまり父のことを考えなかったのかということが、ひょっこり黄色い線路の間からよみがえってくる。
なぜこんなに人間がいないのか、生きている人間はどこにいったのだという声にならぬ声を裏切るように白い袋を下げた女が何かぶつぶつつぶやきながら通り過ぎていき、これはもう戦争に負けたというより以上のものかもしれんと彼は思った。
不思議にそのままの形をして転がっているバケツが彼の足に触れてまだ音があったのかというようにガランガランと転がっていき、哲学も国家もバケツだバケツだという考えがつづいて彼を襲った。
バケツだけがリアルなもので、すべてはリアルではなくなりました。
何もかもがうつろで、ただそれにすがるしかなかった。人間もいない。ネコもいない。街もない。家族もいない。確か、街はあったはずなのに、すべてはかき消されてしまった。自分は、何を頼りに生きて行けばいいんだ。自分の住んでる街に戻れば、長崎の悲惨さからは離れられるかもしれない。でも、ここには人の暮らしがあったはずなのに、すべてが失われてしまった。
バケツなら万歳だ。バケツなら朴本準沢(ぼくもとじゅんたく)だ、バケツなら畑中警部補だ、という前後に何の関連もない言葉が次々に生まれ、バケツなら……(中略)……
……バケツならソヴエート軍の戦車のキャタピラにふみにじられた父だ。
父ちゃんは要領がよかけんねえという祖母きくの声がきこえ、しかしこんどは逃げる暇はないんだ、
バケツならまっくろけの人間だ、原子爆弾だ、芹沢治子だという叫びが内側から潰(つい)えるような音をたてるのだ。
バケツなら万歳だ。バケツなら音が残っている。何もかも死んだ風景の中にバケツだけが転がっている。
バケツから、いろんな自分につながる人たちを探そうとしているらしい。音もするし、生活の道具として使われていたものだ。たまたま、目の前に転がっていた。何にもない長崎の町なのに、バケツだけを発見した。人間はいない。いたとしても、みんなうつろだ。
いってみろいってみろ、バケツなら桜井秀雄だといってみろ、バケツなら桜井秀雄の論理だ、
バケツならみんなまちがっていたんだといってみろ、バケツなら芹沢治子も生き返るのだといってみろ、
バケツならもう一度生きた芹沢治子と会えるのだといってみろとくり返し、バケツなら××××だと
もう一つ最後につぶやいてみたい誘惑から逃れるように、彼は原子爆弾の焔(ほのお)の筋を斜めにはっきり焼きつけている長崎医大病院の壁の前に立ったのである。
ひととおりヤケクソになってみましたね。落ち着いたかな?
もういくらヤケクソになっても、何にも起こりませんよ。延々とヤケクソになってても、いつかお腹は減るだろうし、ことばも出なくなりますよ。涙も出なくなるかも。
そんな時、どうしたらいいんだろう。やはり、誰かに「どうして、こうなったんだよ」と、訊いてもどうにもならないことを、訊かないことには、落ち着けないよ!
レンガ色と白っぽい鉄色の混じりあった奇妙な風景が海までつづいていた。コンクリートの建物が上の方だけ溶けてしまい、その一階の窓の下に未開地の人々が使用する石の通貨のようなものがぴたりとはりついている不思議な形をした風景が彼の目の前にひらけていた。
地獄が準備する時間もなくやってきたのでとまどっているような、逃げおくれたうめきが鳴っているような、考えようによっては笑い出したくなるような風景が見渡す限り畑のような段々を作っていた。〈井上光晴『虚構のクレーン』(新潮文庫)より〉
そうなのか、すべてがホントの世界でないように見えた。ひずんで見えた。もうグニャグニャの時間・空間が見えた。
これはもう、確かに起こったことには違いないが、もう笑うしかなかったのか。とうとう人間は、そんなふうにして人間を傷つけても平気になってしまったんだ。もう、何でもあり、何千年と残虐なことを繰り返してきた人間だけど、とうとう行きつくところまで来てしまったという風に見えた。
井上さん、よく表現しましたね。ボクにはとてもできませんし、できれば、そういう世界から離れていたいと思っています。でも、形を変えて、人間の愚の歴史は、私たちを襲うのかもしれません。ちゃんと私たちはそれに対応して、拒否できるのかどうか、私は心配です。