世の中には、いろんな名場面があって、私たちはあまりよくわからないままに、それらを受け入れていて、時々は詳しく知りたいと本でも見るわけですが、この「田村麿」って、誰なんだろう。
坂上田村麻呂というのは、高校の日本史で習いました。平安時代初期のスーパー武人であり、征夷大将軍を受けたというお方です。エゾを征伐に行った、という事柄は習いましたけど、他には何をした人なのか、さっぱりわからなかった。
残念ながら、平安初期の混乱の、いろんなエピソードって、私はあまりふれる機会がなくて、794ウグイス平安京、桓武天皇、みたいなただの事柄としてしか憶えていません。
本当はもっともっと物語がありそうです。『田村三代記』というのがあるそうですが、見たことも聞いたこともありませんでした。読みたいと思ったら、どうしたらいいんでしょうね。
そして、読んでみたら、面白いんだろうか。そこに知らない物語がありそうです。
そして、この絵は、坂上田村麻呂が、鈴鹿のお山の大嶽丸という鬼みたいなのを退治する話なのだと思われますが、敵キャラがどんな悪い奴で、それを退治する田村麻呂がどんなにすごいのか、今の私たちには知るすべもありません。ウィキペディアにはあれこれと載っているけれど、読む気がしませんでした。
今昔物語集、宇治拾遺物語など取り出してみましたが、載っていないようです。あんなスーパースターなのに、説話文学に取り上げられてないなんて、どうしてなんだろう。空海伝説、田村麻呂伝説、追いかけてみると、何か見つかるかもしれない。果たして私に勉強する気持ちがあるかどうか、それが問題です。ないかもしれない。情けないことです。
お能の「田村」というのはストレートなネーミングですけど、中世の時代に、坂上田村麻呂はものすごく持ち上げられたようで、どうして数百年後にいろんな伝説が作り上げられていくのか、少し興味がありますね。ネットから借りてきました。
この清水寺はどうして作られたの? という質問に、清水寺の守り神の童子が答えたんだそうです。
シテ詞「そも/\当寺清水寺と申すは。大同二年(802)の御草創。坂上の田村丸の御願なり。
この清水寺は、802年に坂上田村麻呂さまがお建てになったお寺となっています。
昔大和の国子島寺といふ所に。賢心といへる沙門。正身の観世音を拝まんと誓ひしに。
大和の子島寺というところに賢心というお坊さんがいて、本当の観音様にお会いしたいと誓って、旅しておられますと、
ある時木津川の川上より金色の光さしゝを。尋ね上つて見れば一人の老翁あり。
木津川の上流(三重県の奥の方、奈良県の室生寺とかそのあたりの山から流れてきたりします)から金色の光がさしているので、その光を頼りに川をさかのぼっていくと、おじいさんに出会いました。
かの翁語つていはく。我はこれ行叡居士といへり。汝一人の檀那を待ち。大伽藍を建立すべしとて。東をさして飛び去りぬ。
おじいさんが言うには、私は行叡(ぎょうえい?)というものです。あなたはこれから良きパートナーを見つけて、観音様をまつるお寺を作りなさいということばを残して消え去ってしまいました。
されば行叡居士といつぱ。これ観音薩陀の御再誕。又檀那を待てとありしは。これ坂の上の田村丸。
この行叡というのが観音様の化身で、パートナーというのが坂上田村麻呂さまだったのです。
地上歌「今もその。名に流れたる清水の。名に流れたる清水の。深き誓も数々に。千手の。御手のとりどり様々の誓普くて国土万民を漏らさじの。大悲の影ぞありがたき。
コーラスで歌われるのは、「きれいな清水の流れる、いろんな人々の願いや思いは、観音様のありがたい救いの手によって、みんな漏らさず救われて、そのお姿・そのおかげが、とても有り難いのでございます。
げにや安楽世界より。今この娑婆(しゃば)に示現(じげん)して。我らが為の観世音。仰ぐも愚かなるべしや。仰ぐも愚かなるべしや。
本当に安楽世界から、私どもの人間世界にお越しいただき、私どものための観音様は、見上げるのは有り難いことですし、どうして愚かというものですか、それが私どもがおすがりするべき本当の仏様なのです。
本当に安楽世界から、私どもの人間世界にお越しいただき、私どものための観音様は、見上げるのは有り難いことですし、どうして愚かというものですか、それが私どもがおすがりするべき本当の仏様なのです。
清水の観音様が、田村麻呂さんによって802年に作られた、ということですけど、田村麻呂さんはどんな人なのか、わからないですね。イメージできないです。