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啄木さんの十代をうたったものを三つ載せてみます。
己(おの)が名をほのかに呼びて
涙せし
十四の春にかへる術(すべ)なし
教室の窓より遁(に)げて
ただ一人
かの城址(しろあと)に寝に行きしかな
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
啄木さんが、東京かどこかで、売れない小説を書き、新聞社の校正係をコツコツ勤め、それでも何か書きたくて仕方がなくて、ついつい昔の自分を思い出し、少し美化してノスタルジックに書いた作品です。
もう少し長生きして、自分の高慢で、生意気で、プレイボーイで、才能があるというのを鼻に掛けているのを冷静に見つめるようになったら、自分を題材におもしろい小説が書けたでしょうけど、残念ながら彼には、時間がなかった。
断片的な歌ではあるけれど、なんとなく彼にしか出せない味があります。今の人がこんな歌を作っても、誰からも取り上げてもらえないでしょう。
こんなにまっすぐで、アッケラカンとして、自分の過去を語れるのは、彼ならではです。そうです。今の人なら、もう少し楽しかったこととか、だるくてつまらない日々だったと振りかえるだけで、自然と交感するところがありません。
そうですね。啄木さんは、すぐに風景にとけこんでトリップしてしまう。魂はそこに放出してしまうし、別の自分が現れて、問答などをしてしまう。
啄木さんも、歌の中で物語が作れていますね。だから、私たちは彼の物語もついつい読んでしまうんです。小説は読めそうもないけど、短歌の中の物語なら読めそうです。彼なりの世界があるような気がします。
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さあ、賢治さん、啄木さんに挑戦するんですね。何歳です?
大正三年(1914)のところに入っているから、十八歳になるのかな。だったら、賢治さんに勝ち目はないかもしれない。キャリアも違うし、啄木さんのフィールドで戦うんだから、アゥエーだと思うんだけれど……。
176 城址(しろあと)のあれ草にねて心むなしのこぎりの音風にまじり来(く)
181 しろあとの四つ角山につめ草のはなは枯れたりしろがねの月
182 碧(あお)びかりいちめんこめし西ぞらにぼうとあかるき城あとの草
十代のむなしさみたいなのは出せていません。もちろんこれは十代そのものなんだから、渦中にある人が自分を冷静には歌えません。やはり、啄木さんの方が勝っている。
でも、すでに賢治さんは武器というか、得意技というか、これなら負けないというものを持ちつつあります。
天然自然の現象を上手にキヤッチするし、そっちのセンサーがかなり発達しています。外に出てみれば、それらが自然と目に入り、耳で聞こえ、それらを使って風景描写ができる力を持ちつつありました。
「のこぎりの音」が城址で聞こえる。お月様が白銀に見える。稲光に一瞬青いものをつかむことができる。この切り取り方が、賢治さんの理科的センスであり、目なんですね。啄木さんはそういうのは持ってませんでした。ただ、心の内に何があるかをポイッと出す人でしたから。
啄木さんは短歌は天分でやっているのかな。賢治さんは努力の人なのかな。
冒頭の短歌(?)は、オッチャンのわたしが、お風呂の中でムリムリに十代をふり返ったものです。私は、もちろん才能も努力も足りません。ただ無手勝流で下手を振り回すだけです。