38【宋襄の( )】……無用のなさけ。
→宋の襄公(じょうこう)が楚と戦ったとき、敵陣が整わないうちに攻めようと進言した家来の意見を採用せず、敵陣が整うのを待ってやったために、みすみす勝てるチャンスを見逃して負けてしまったという故事による。《春秋左氏伝》
39【( )らざるを以て宝と為す】……どれほど高価な財宝も、すべての人に大切なものとなるとは限らない。人によっては金銀財宝よりも大切なものがある。
★ 空欄に適切な漢字一字を考えてください。38は、なさけを漢字にしたらOKです。孔子さんがいついも言ってたあの漢字です。39は、拝金主義・何事もカネ、金という状態を漢字にしてもらったらいいですよ。何をしないいのを宝にするんでしょう。
今から3200年前の中国、西の田舎の国の周が、中央のにあった殷という国を倒します。皆殺しにするわけではなくて、周の成王さんは殷の生き残りの微子という人を王として宋という国を建てさせます。
その結果、征服者である周の人々は、「宋人(そうひと)」をバカにして、何かとケチをつける。そうなると、宋の人々は、田舎者にバカにされてなるものかと、いよいよ紳士然として、ちょっとオツに澄ましたような、どこか気取った気風というのを形成していったのでしようか。
混乱期の春秋時代に、5人の覇者(はしゃ)のうちに数えられる、宋の襄公(じょうこう)さんは、食うか食われるかの戦争なのに、相手が不利なときには攻めないで、相手が万全になってから戦いを始めて、コテンパンにやられてしまいます。
昔なんだから、それなりにのんびり戦っていたのだろうと、現代の我々は思ってしまいますが、戦いなんですから、うっかりしていると殺されてしまうのです。真剣勝負です。でも、世の中から弱虫とバカにされ、亡国の民と後ろ指をさされるお国柄であれば、なにくそと思って、正々堂々と戦いたくなるのも人情です。
それを実践して、襄公さんは笑い話の主人公になってしまった。けれども、本人としては本望だったでしょう。
「オレれたちは卑怯者じゃないんだ。いつも正々堂々戦い、勝つときもあれば負けるときもあるさ」と、
負けても自分たちとしては満足する部分もあったかもしれない。なにしろ相手は野蛮で、ルール無視の国の楚のヤツらですから、こっちは騎士として挑んでも、野蛮人にはそんなのは通用しなかったということです。
襄公さんは、斉の桓公さんが亡くなった後に諸侯を集めて会盟したそうです。これを楚の成王は不快に思い、会
盟にやってきた襄公を監禁してしまいます。まさにルール無視でわがまま放題の国(それが楚という南の国でした)の王様がしてしまいそうなできごとです。
いやいやながら謝罪をして、解放してもらった襄公さんは雪辱(せつじょく)するために、泓水(おうすい)で楚と決戦を行いました。楚軍が河を渡ろうとした時、これを好機と宋軍の宰相が攻撃許可を求めたのに、襄公さんは許可しなかった。
その後、楚軍が隊列を整えている所を見て、宰相は再び攻撃許可を求めた。襄公さんは許可しない。
河を渡り終え、隊列を整え終えた楚軍は宋軍を叩きのめし、宋は惨敗。
後に「何故許可を出さなかったのか」と聞かれて襄公さんは
「君子は人の弱みに付け込んで戦いに勝つような事はしないものだ。」
と答えます。これで、身の程知らずのつまらないなさけを、「宋襄の……」と呼ぶようになったそうです。
泓水(おうすい)の戦いの後、晋の公子である重耳(ちょうじ)さんが宋に亡命してきます。重耳がすぐれた人物であるということを見抜いた襄公さんは、敗戦後にも関わらず重耳さんを大いにもてなします。この恩を重耳さんは忘れませんでした。
重耳さんが晋の君主になった後、宋が楚に攻められた時に大軍を発してこれを救援したそうで、重耳さんの死後もこの関係は変わらず、どんなに楚に痛めつけられても、宋は晋に対する信頼感を持ち続けました。食うか食われるかの時代にしては、珍しい友好関係を築けたのはすべて襄公さんのおかげでした。
その宋の国に、こんな話があります。『春秋左氏伝』襄公十五年の記事です。
宋人、玉を得るものあり。これを子罕(しかん)に献ず。子罕、受けず。
玉を献ずる者曰く、「以て玉人に示すに、玉人、以て宝と為すなり。故に敢えて之れを献ず」と。
子罕曰く、「我れは貪らざるを以て宝と為す。爾(なんじ)は玉を以て宝と為す。もし以て我れに与えれば、ともに宝を喪(うしな)うなり。人ごとに其の宝を有するにしかず」と。
この価値観の違いはどうしようもありません。宝物の玉をプレゼントして、それなりの見返りを期待しているのに、相手からは「こんなものはいらない。私は欲がないということを私の宝物にしているのだ。だから、私は宝物という宝物をすべて拒否して、何も所有しないことにしているのだ」と宣言されてしまったら、ワイロを送ろうとした方の立つ瀬がありません。ケンモホロローで、2人の間には大きな価値観の違いがあった。
「貪欲でないこと」、モノに執着しないことを自分の宝にしているんだよ!
なんて、とても下世話な私たちには言えないことばです。私たちはそれはもう躍起になって豊かになろうとしているのに、少しでもお金儲けをしようと必死になっているのに、サラリとこんなことが言える人ってスゴイですね。
宝玉が高価であればあるほど、それを受け取れば自らの宝を失うことになる。だから「もし以て我れに与えれば、ともに宝を喪うなり」とは、あなたも私も、2人とも宝を失うことになるんだよなんて、とても一般庶民には言えないことばです(だから、3000年後の今にも伝えられている!)。
少しカッコよすぎかな。でも、人生で一度はこんなことを言ってみたいです。
「それをしたら(渡したら・くれたら)、キミもボクもお互いに宝を失うことになるから、ボクは遠慮するよ」
どこかでありそうなシチュエーションですね。
それよりは、「それをぜひボクにください」と正直に言う方が私は好きですけど、お金持ちは、こういう余裕がある方がいいですね。よっぽどお金持ちになるか、カッコいい人になるかですね。とにかく、私には無理です。
★ 答え 38……仁(じん) 39……貪(むさぼ)らざる でした。
→宋の襄公(じょうこう)が楚と戦ったとき、敵陣が整わないうちに攻めようと進言した家来の意見を採用せず、敵陣が整うのを待ってやったために、みすみす勝てるチャンスを見逃して負けてしまったという故事による。《春秋左氏伝》
39【( )らざるを以て宝と為す】……どれほど高価な財宝も、すべての人に大切なものとなるとは限らない。人によっては金銀財宝よりも大切なものがある。
★ 空欄に適切な漢字一字を考えてください。38は、なさけを漢字にしたらOKです。孔子さんがいついも言ってたあの漢字です。39は、拝金主義・何事もカネ、金という状態を漢字にしてもらったらいいですよ。何をしないいのを宝にするんでしょう。
今から3200年前の中国、西の田舎の国の周が、中央のにあった殷という国を倒します。皆殺しにするわけではなくて、周の成王さんは殷の生き残りの微子という人を王として宋という国を建てさせます。
その結果、征服者である周の人々は、「宋人(そうひと)」をバカにして、何かとケチをつける。そうなると、宋の人々は、田舎者にバカにされてなるものかと、いよいよ紳士然として、ちょっとオツに澄ましたような、どこか気取った気風というのを形成していったのでしようか。
混乱期の春秋時代に、5人の覇者(はしゃ)のうちに数えられる、宋の襄公(じょうこう)さんは、食うか食われるかの戦争なのに、相手が不利なときには攻めないで、相手が万全になってから戦いを始めて、コテンパンにやられてしまいます。
昔なんだから、それなりにのんびり戦っていたのだろうと、現代の我々は思ってしまいますが、戦いなんですから、うっかりしていると殺されてしまうのです。真剣勝負です。でも、世の中から弱虫とバカにされ、亡国の民と後ろ指をさされるお国柄であれば、なにくそと思って、正々堂々と戦いたくなるのも人情です。
それを実践して、襄公さんは笑い話の主人公になってしまった。けれども、本人としては本望だったでしょう。
「オレれたちは卑怯者じゃないんだ。いつも正々堂々戦い、勝つときもあれば負けるときもあるさ」と、
負けても自分たちとしては満足する部分もあったかもしれない。なにしろ相手は野蛮で、ルール無視の国の楚のヤツらですから、こっちは騎士として挑んでも、野蛮人にはそんなのは通用しなかったということです。
襄公さんは、斉の桓公さんが亡くなった後に諸侯を集めて会盟したそうです。これを楚の成王は不快に思い、会
盟にやってきた襄公を監禁してしまいます。まさにルール無視でわがまま放題の国(それが楚という南の国でした)の王様がしてしまいそうなできごとです。
いやいやながら謝罪をして、解放してもらった襄公さんは雪辱(せつじょく)するために、泓水(おうすい)で楚と決戦を行いました。楚軍が河を渡ろうとした時、これを好機と宋軍の宰相が攻撃許可を求めたのに、襄公さんは許可しなかった。
その後、楚軍が隊列を整えている所を見て、宰相は再び攻撃許可を求めた。襄公さんは許可しない。
河を渡り終え、隊列を整え終えた楚軍は宋軍を叩きのめし、宋は惨敗。
後に「何故許可を出さなかったのか」と聞かれて襄公さんは
「君子は人の弱みに付け込んで戦いに勝つような事はしないものだ。」
と答えます。これで、身の程知らずのつまらないなさけを、「宋襄の……」と呼ぶようになったそうです。
泓水(おうすい)の戦いの後、晋の公子である重耳(ちょうじ)さんが宋に亡命してきます。重耳がすぐれた人物であるということを見抜いた襄公さんは、敗戦後にも関わらず重耳さんを大いにもてなします。この恩を重耳さんは忘れませんでした。
重耳さんが晋の君主になった後、宋が楚に攻められた時に大軍を発してこれを救援したそうで、重耳さんの死後もこの関係は変わらず、どんなに楚に痛めつけられても、宋は晋に対する信頼感を持ち続けました。食うか食われるかの時代にしては、珍しい友好関係を築けたのはすべて襄公さんのおかげでした。
その宋の国に、こんな話があります。『春秋左氏伝』襄公十五年の記事です。
宋人、玉を得るものあり。これを子罕(しかん)に献ず。子罕、受けず。
玉を献ずる者曰く、「以て玉人に示すに、玉人、以て宝と為すなり。故に敢えて之れを献ず」と。
子罕曰く、「我れは貪らざるを以て宝と為す。爾(なんじ)は玉を以て宝と為す。もし以て我れに与えれば、ともに宝を喪(うしな)うなり。人ごとに其の宝を有するにしかず」と。
この価値観の違いはどうしようもありません。宝物の玉をプレゼントして、それなりの見返りを期待しているのに、相手からは「こんなものはいらない。私は欲がないということを私の宝物にしているのだ。だから、私は宝物という宝物をすべて拒否して、何も所有しないことにしているのだ」と宣言されてしまったら、ワイロを送ろうとした方の立つ瀬がありません。ケンモホロローで、2人の間には大きな価値観の違いがあった。
「貪欲でないこと」、モノに執着しないことを自分の宝にしているんだよ!
なんて、とても下世話な私たちには言えないことばです。私たちはそれはもう躍起になって豊かになろうとしているのに、少しでもお金儲けをしようと必死になっているのに、サラリとこんなことが言える人ってスゴイですね。
宝玉が高価であればあるほど、それを受け取れば自らの宝を失うことになる。だから「もし以て我れに与えれば、ともに宝を喪うなり」とは、あなたも私も、2人とも宝を失うことになるんだよなんて、とても一般庶民には言えないことばです(だから、3000年後の今にも伝えられている!)。
少しカッコよすぎかな。でも、人生で一度はこんなことを言ってみたいです。
「それをしたら(渡したら・くれたら)、キミもボクもお互いに宝を失うことになるから、ボクは遠慮するよ」
どこかでありそうなシチュエーションですね。
それよりは、「それをぜひボクにください」と正直に言う方が私は好きですけど、お金持ちは、こういう余裕がある方がいいですね。よっぽどお金持ちになるか、カッコいい人になるかですね。とにかく、私には無理です。
★ 答え 38……仁(じん) 39……貪(むさぼ)らざる でした。