他愛もない話です。でも、まぎれもなく三重の文学なのです! 干刈さんが三重に取材に来てくれたのか、それとも人聞きの話をそのまま作品にしたのか、とにかく彼女の作品で三重県があつかわれるなんて、驚きでした。
私が注目することになった「マスク」という作品も、函館と埼玉が舞台でした。取材に来たんでしょうか、それともそんなことをしないで書けちゃったのか、それなりに取材はしたと思うのですが、まず感謝ですね。
いまどき、へそパンも珍しいけど、へそパン姫こと山脇徳子さんという人も、近年まれに見る女の珍種ではないかと思う。
今朝、徳子さんはツバメ人形浄瑠璃会への助成金をもらいに上京した。東京どころか外国へだって女の人たちがどんどん行く今日このごろ、上京という言葉もあんまり実感がなくなったけれど、彼女の場合は生きている。
知り合って間もない頃に聞いたことがあったが、彼女はそれまで東京へは二度しか行ったことがなかったそうだ。一度目は高校の時の修学旅行で、二度目は市役所に勤めていた時、デモに〈くっついて〉行ったそうだ。
「それっきり? なんで?」
と私が聞くと、彼女は木目込み人形みたいな顔でおっとり笑って言った。
「名古屋より東に親戚もおらんから、結婚式や法事でよばれることもないし」
「べつによばれなくても、勝手に行けばいいじゃない。行きたいと思わないの?」
「そうやねえ、そのうち桂さんに連れてってもらおうかねえ」
と、あんまりその気のなさそうに言った。
だいたい彼女は、ほとんど一年じゅう〈県外不出〉の人なのだ。私が彼女とつき合い始めてからの八年間でも、彼女が県外へ出るのは、私が誘って京都や大阪や奈良へ、文楽を見に行ったり美術展を見に行ったりする時ぐらいだ。
私なんか、このツバメ市へヨメに来て最初の一年間は「ヤッホー、奈良はほんの隣りだ、京都は隣りの隣りだ」って感じで、日曜日ごとに店のライトバンで勝也(語り手の桂さんの旦那さん)と出掛けてたのに、彼女はぜんぜん地の利を生かしてなかった。
その後、私は一度、彼女を東京へ連れて行った。国立劇場で文楽を見て、私の実家で一泊して帰ってきたんだけど、翌日から二日間、彼女は頭痛で寝込んでしまった。
「それは知恵熱よ、いや関東病かなあ」と私は言ったものだ。
友人の桂さんが、へそパンをはくことをポリシーにしている徳子さんのかわったところを語っていきます。30過ぎのそれなりの女性なのに、おへそのところまであがる下着をはかないと調子がわるくなるのだというのです。
それから、ずっとブラジャーをつけないことも主義としてやってきていて、友人たちから指摘されると、
「おじいちゃんがね、女は体を締めつけたり冷やしたりしちゃいけんて。お母さんは、それを素直に守って、いまだにへそパンをはいとんの」
と徳子さんのお嬢さんが弁解してくれました。高校生の娘さんがいるらしいのです。アラフォーかな。
桂さんと徳子さんは、地域の文化活動で一緒に人形浄瑠璃を演じてたりします。三重県の海側に突き出た志摩半島の先端に安乗(あのり)中学というところがあって、そこでは中学の教育活動で文楽に取り組んでいたりします。それがたまたまツバメ市というところでも、そういう活動があったというのです。
私(語り手の桂さんのこと)はこのツバメ市に来て六年目ぐらいだった。正式にはM県Y市だけれど、名古屋から私鉄に乗り換えてY駅に降り立った時、ツバメが飛んでいたので、ひそかにツバメ市と名づけたのだった。
学生時代に知り合った勝也は、酒屋の一人息子だったから、結婚したらこっちに嫁いできて家業を継ぐことは覚悟していた。お父さんもお母さんもあけっぴろげな人で、勝也もサッパリした男だし、わりと好奇心の強い私は商売に向いているようだった。……中略……
市とはいっても駅から車で五分も走ると、だだっ広い畑の中に店や民家がぽつんぽつんとある、大まかな町の酒屋。知ってる人はみんな私に、酒屋の若奥さんとしての話しかしない。来た時にはこの土地の幸福のしるしのように思えたツバメが、なんだか遠くへ飛んでいく、うらやましい鳥のように見えた。
そんなポッカリとした精神状態の時に、徳子さんの家を仕事で訪ね、たくさんの人形を見せてもらい、サークルを立ち上げるきっかけができたのでした。
昔はこのあたりは農村だったけれど、祭の時には人形浄瑠璃をした。ふだんは畑を耕している人たちが、祭には人形つかいや語り節をうなる人になるのだった。徳子さんの家は昔の庄屋で、蔵にはいろいろな古い物もあったが、戦争の時に焼夷弾(しよういだん)がバラバラ降ってきて、蔵は焼けてしまった。この地方の海岸沿いには工場地帯があるので、集中的に砲火を浴びたらしい。
その時、徳子さんの父親は人形さんを担いで逃げた。戦後は農地解放で、持っていた畑もずいぶん少なくなった。それまで小作人だった人たちの態度も変わったりして、戦後は父親の気に染まないことも多かったらしい。あまり人ともつき合わなくなったが、この人形さんたちが好きで、よく徳子さんに教えてくれた。そのお父さんは二年前に亡くなったけれど。
それで、サークル活動として何年間かが経過して、このサークルに助成金が五十万おりることになった。そして、もらいにいく人が県外不出の人・徳子さんで、大騒ぎしながら行って帰ってきたというお話でした。
おしまいは、
へそパン姫が小切手を持ってわが家に入ってきた時、みんなは盛大に拍手をしながら、大笑いで迎えた。彼女はキョトンとして、
「なんで? なんでそんなに笑うの? なんかおかしい?」
と言った。しかし、時間どおりに帰ってきて、こんなに喜ばれる人も珍しい。私は春菜ちゃん(徳子さんのお嬢さん)に指示した。
「お母さんは明日から二日間寝込むから、覚悟しておきなさい」
と、コメディタッチの終わり方をしています。
ねっ、三重の文学だったでしょ! 彼女はふるさとの奄美諸島の民族的な研究もしたといいますから、地域の伝統文化には興味があった人でした。その干刈さんが三重県の庶民芸能を取り上げるのは、少しも不思議ではないのですが、もっと都会的な男と女の苦しみみたいなのを追求している人だったのでは? という先入観で読んでいたら、意外な軽さで、何だか楽しいです。
ゆっくり時間をかけて読んでますけど、今日こそ読み終えましょう。
タイトルになっている「借りたハンカチ」は、今の時期にピッタリの作品なんだけど、これだけはもう一度読んでもいいですね。またこんど!!
私が注目することになった「マスク」という作品も、函館と埼玉が舞台でした。取材に来たんでしょうか、それともそんなことをしないで書けちゃったのか、それなりに取材はしたと思うのですが、まず感謝ですね。
いまどき、へそパンも珍しいけど、へそパン姫こと山脇徳子さんという人も、近年まれに見る女の珍種ではないかと思う。
今朝、徳子さんはツバメ人形浄瑠璃会への助成金をもらいに上京した。東京どころか外国へだって女の人たちがどんどん行く今日このごろ、上京という言葉もあんまり実感がなくなったけれど、彼女の場合は生きている。
知り合って間もない頃に聞いたことがあったが、彼女はそれまで東京へは二度しか行ったことがなかったそうだ。一度目は高校の時の修学旅行で、二度目は市役所に勤めていた時、デモに〈くっついて〉行ったそうだ。
「それっきり? なんで?」
と私が聞くと、彼女は木目込み人形みたいな顔でおっとり笑って言った。
「名古屋より東に親戚もおらんから、結婚式や法事でよばれることもないし」
「べつによばれなくても、勝手に行けばいいじゃない。行きたいと思わないの?」
「そうやねえ、そのうち桂さんに連れてってもらおうかねえ」
と、あんまりその気のなさそうに言った。
だいたい彼女は、ほとんど一年じゅう〈県外不出〉の人なのだ。私が彼女とつき合い始めてからの八年間でも、彼女が県外へ出るのは、私が誘って京都や大阪や奈良へ、文楽を見に行ったり美術展を見に行ったりする時ぐらいだ。
私なんか、このツバメ市へヨメに来て最初の一年間は「ヤッホー、奈良はほんの隣りだ、京都は隣りの隣りだ」って感じで、日曜日ごとに店のライトバンで勝也(語り手の桂さんの旦那さん)と出掛けてたのに、彼女はぜんぜん地の利を生かしてなかった。
その後、私は一度、彼女を東京へ連れて行った。国立劇場で文楽を見て、私の実家で一泊して帰ってきたんだけど、翌日から二日間、彼女は頭痛で寝込んでしまった。
「それは知恵熱よ、いや関東病かなあ」と私は言ったものだ。
友人の桂さんが、へそパンをはくことをポリシーにしている徳子さんのかわったところを語っていきます。30過ぎのそれなりの女性なのに、おへそのところまであがる下着をはかないと調子がわるくなるのだというのです。
それから、ずっとブラジャーをつけないことも主義としてやってきていて、友人たちから指摘されると、
「おじいちゃんがね、女は体を締めつけたり冷やしたりしちゃいけんて。お母さんは、それを素直に守って、いまだにへそパンをはいとんの」
と徳子さんのお嬢さんが弁解してくれました。高校生の娘さんがいるらしいのです。アラフォーかな。
桂さんと徳子さんは、地域の文化活動で一緒に人形浄瑠璃を演じてたりします。三重県の海側に突き出た志摩半島の先端に安乗(あのり)中学というところがあって、そこでは中学の教育活動で文楽に取り組んでいたりします。それがたまたまツバメ市というところでも、そういう活動があったというのです。
私(語り手の桂さんのこと)はこのツバメ市に来て六年目ぐらいだった。正式にはM県Y市だけれど、名古屋から私鉄に乗り換えてY駅に降り立った時、ツバメが飛んでいたので、ひそかにツバメ市と名づけたのだった。
学生時代に知り合った勝也は、酒屋の一人息子だったから、結婚したらこっちに嫁いできて家業を継ぐことは覚悟していた。お父さんもお母さんもあけっぴろげな人で、勝也もサッパリした男だし、わりと好奇心の強い私は商売に向いているようだった。……中略……
市とはいっても駅から車で五分も走ると、だだっ広い畑の中に店や民家がぽつんぽつんとある、大まかな町の酒屋。知ってる人はみんな私に、酒屋の若奥さんとしての話しかしない。来た時にはこの土地の幸福のしるしのように思えたツバメが、なんだか遠くへ飛んでいく、うらやましい鳥のように見えた。
そんなポッカリとした精神状態の時に、徳子さんの家を仕事で訪ね、たくさんの人形を見せてもらい、サークルを立ち上げるきっかけができたのでした。
昔はこのあたりは農村だったけれど、祭の時には人形浄瑠璃をした。ふだんは畑を耕している人たちが、祭には人形つかいや語り節をうなる人になるのだった。徳子さんの家は昔の庄屋で、蔵にはいろいろな古い物もあったが、戦争の時に焼夷弾(しよういだん)がバラバラ降ってきて、蔵は焼けてしまった。この地方の海岸沿いには工場地帯があるので、集中的に砲火を浴びたらしい。
その時、徳子さんの父親は人形さんを担いで逃げた。戦後は農地解放で、持っていた畑もずいぶん少なくなった。それまで小作人だった人たちの態度も変わったりして、戦後は父親の気に染まないことも多かったらしい。あまり人ともつき合わなくなったが、この人形さんたちが好きで、よく徳子さんに教えてくれた。そのお父さんは二年前に亡くなったけれど。
それで、サークル活動として何年間かが経過して、このサークルに助成金が五十万おりることになった。そして、もらいにいく人が県外不出の人・徳子さんで、大騒ぎしながら行って帰ってきたというお話でした。
おしまいは、
へそパン姫が小切手を持ってわが家に入ってきた時、みんなは盛大に拍手をしながら、大笑いで迎えた。彼女はキョトンとして、
「なんで? なんでそんなに笑うの? なんかおかしい?」
と言った。しかし、時間どおりに帰ってきて、こんなに喜ばれる人も珍しい。私は春菜ちゃん(徳子さんのお嬢さん)に指示した。
「お母さんは明日から二日間寝込むから、覚悟しておきなさい」
と、コメディタッチの終わり方をしています。
ねっ、三重の文学だったでしょ! 彼女はふるさとの奄美諸島の民族的な研究もしたといいますから、地域の伝統文化には興味があった人でした。その干刈さんが三重県の庶民芸能を取り上げるのは、少しも不思議ではないのですが、もっと都会的な男と女の苦しみみたいなのを追求している人だったのでは? という先入観で読んでいたら、意外な軽さで、何だか楽しいです。
ゆっくり時間をかけて読んでますけど、今日こそ読み終えましょう。
タイトルになっている「借りたハンカチ」は、今の時期にピッタリの作品なんだけど、これだけはもう一度読んでもいいですね。またこんど!!