飛行機の窓ガラスに油がずっと漏れて張り付いていました。どうするんだろう。
スチュワーデスは返事をしなかった。じっとエンジンの方を見詰めていた。その真剣な横顔に、五郎はふと魅力を感じた。やがてエンジンの形も見にくくなった。黒い飛沫(ひまつ)が窓ガラスの半分ぐらいをおおってしまったのである。斜めうしろの乗客たちも、異常に気付いて、ざわめき始めた。
スチュワーデスは何も言わないで、足早に前方に歩いた。操縦席の中に入って行った。その脚や揺れる腰を、五郎はじっと見ていた。病院のことがよみがえって来た。
イマイチ飛行機のイメージが持てないのですが、あとで40人の定員と出てくるので、そんなに大きな飛行機ではなさそうです。YS11でもないんだろうか。少し調べないと分からないですね。
〈今頃騒いでいるだろうな〉
五郎は病室を想像しながら、そう思った。病室には彼を入れて、四人の患者がいた、それに付添婦が二人。騒ぎ出すのはまず付添婦だろう。患者たちは会話や勝負ごとはするけれども、お互いの身柄については責任を持たない。精神科病院だけれども、凶暴なのはいない。
五郎は病室を想像しながら、そう思った。病室には彼を入れて、四人の患者がいた、それに付添婦が二人。騒ぎ出すのはまず付添婦だろう。患者たちは会話や勝負ごとはするけれども、お互いの身柄については責任を持たない。精神科病院だけれども、凶暴なのはいない。
一番古顔は四十がらみの男で、電信柱から落っこちて頭をいためた。この男はもう直っているにもかかわらず、退院しない。会社の給料か保険かの関係で、入院している方が得なのだと、付添婦が教えて呉れた。電信柱というあだ名がついている。
「図々しい男だよ。この人は」
「うそだよ。そんなこたぁないよ」
その男はにやにやしながら弁明した。
「図々しい男だよ。この人は」
「うそだよ。そんなこたぁないよ」
その男はにやにやしながら弁明した。
五郎さんは、精神科の病院にいたそうです。そこにたどり着くまでの人生が知りたいけれど、まだ分かりません。病院にはいろんな人たちがいて、いろんな人生が語られます。
高校生の時に読んだ時にはスーツと聞き流してたところですけど、今となっては、そういうこともあるのかと、勉強になります。それもこれも、年を取ったからわかることで、若い人にはそんなことはどうでもいいことで、とにかく何かが探り出さないといけないし、見つけなくてはならないのです。
その次は爺さん。チンドン屋に会うと、気持が変になって入って来る。何度も入って来るから、のべ時間にすればこちらの方が古顔ともいえる。もう一人は若い男。テンプラ屋の次男で、病名はアルコール中毒。皆おとなしい。
〈騒いでももう遅い。おれはあそこから数百里離れたところにいる〉
喫茶店でコーヒーを飲む前から、淀んで変化のない、喜びもない病室に戻りたくないという気分はあった。――
〈騒いでももう遅い。おれはあそこから数百里離れたところにいる〉
喫茶店でコーヒーを飲む前から、淀んで変化のない、喜びもない病室に戻りたくないという気分はあった。――
確かに、収容所ではないのだから、患者さんたちは自由を拘束されているわけではありません。ただ、社会生活を営む上で、しんどいことがあるから、できればそういうところから離れるため、病気をいやすために、社会から離れたところにいた。
でも、患者さんの中には、どうして自分がここに至ったのか、自分でケリをつけたい人もいたでしょう。五郎さんがその人でした。だから、五郎さんは自らの入院費をたまたま持っていたので、そのお金でカゴシマに向かった。荷物はなく、お金もそんなにあるわけではない。服はどこかで手に入れた。
五郎さんの家族について語られるところ、これからあったかどうか?
スチュワーデスが操縦室から、つかつかと出て来た。彼等に背をかがめて言った。
「もう直ぐ鹿児島空港ですから、このまま飛びます。御安心下さい」
そして次の客の方に歩いて行った。窓ガラスはほとんど油だらけになっていた。丹尾が言った。
「席を変えましょうか」
「そうだね」
五郎は素直に応じて、二人は通路の反対の座席に移動した。その方の窓ガラスは透明であった。突然雲が切れる。前方に海が見える。きらきらと光っていた。
「あんたはいくつです?」
座席バンドをしめながら、丹尾が言った。手が震えていると見え、なかなか入らなかった。
「ぼくは三十四です」
「四十五」
五郎は答えた。
「もう直ぐ鹿児島空港ですから、このまま飛びます。御安心下さい」
そして次の客の方に歩いて行った。窓ガラスはほとんど油だらけになっていた。丹尾が言った。
「席を変えましょうか」
「そうだね」
五郎は素直に応じて、二人は通路の反対の座席に移動した。その方の窓ガラスは透明であった。突然雲が切れる。前方に海が見える。きらきらと光っていた。
「あんたはいくつです?」
座席バンドをしめながら、丹尾が言った。手が震えていると見え、なかなか入らなかった。
「ぼくは三十四です」
「四十五」
五郎は答えた。
「潤滑油って、燃えるものかね」
「ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ」
丹尾はポケットから洋酒の小瓶を取出して栓(せん)をあけ、一気に半分ほどあおった。五郎に差出した。
「どうです?」
五郎は頭を振った。丹尾は瓶を引っ込め、ポケットにしまった。機は洋上に出た。
「こわいですか。顔色が悪い」
「いや。くたびれたんだろう」
「ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ」
丹尾はポケットから洋酒の小瓶を取出して栓(せん)をあけ、一気に半分ほどあおった。五郎に差出した。
「どうです?」
五郎は頭を振った。丹尾は瓶を引っ込め、ポケットにしまった。機は洋上に出た。
「こわいですか。顔色が悪い」
「いや。くたびれたんだろう」
自分の飛行機が落ちるかもしれないと思ったら、私はどうするでしょう。落ち着いていられないだろうな。「大丈夫です」と言われても、泣きそうになるかもしれない。あまりおしゃべりしたくないかも……。
こわくはなかったが、体のどこかが震えているのが判(わか)る。手や足でなく、内部のもの。気分と関係なく、何かが律動している。そんな感じがあった。
機は洋上に出た。速力がすこし鈍ったらしい。錦江湾の桜島をゆっくり半周して、高度を下げた。空港の滑走路がぐんぐん迫って来る。着地のショックが、高松や大分のとくらべて、かなり強く体に来た。しばらく滑走して、がたがたと停った。特別な形をしたトラックが二台、彼方から全速で走って来るのが見える。五郎はバンドを外した。爆音がなくなって、急に機内の空気がざわざわと泡立って来た。
機は洋上に出た。速力がすこし鈍ったらしい。錦江湾の桜島をゆっくり半周して、高度を下げた。空港の滑走路がぐんぐん迫って来る。着地のショックが、高松や大分のとくらべて、かなり強く体に来た。しばらく滑走して、がたがたと停った。特別な形をしたトラックが二台、彼方から全速で走って来るのが見える。五郎はバンドを外した。爆音がなくなって、急に機内の空気がざわざわと泡立って来た。
やっとカゴシマの空港に着きました。今は内陸部の霧島の山々に近いところに空港がありますが、このころはカゴシマ市の南の海側、鴨池という地区に空港がありました。
今は球場・港湾施設・イベント会場など、都市空間になっています。そりゃもう、五十万の人々が住む巨大都市になっているわけですから。
そして、それが一味違うテイストなのは、海の向こうに圧倒的存在として生きている桜島というお山があるんですから、他の町とは違うところです。
外は明るかった。南国なので、光線がつよいのだ。タラップを降りる時、瞼(まぶた)がちかちかと痛かった。近くで話している人々の声が、へんに遠くから聞える。耳がバカになったようだ。続いて丹尾が降りて来た。並んで待合室に入った。
「あんなこと、しょっちゅうあるんですか」
やや詰問(きつもん)的な口調で、丹尾は受付の女に言った。
「あんなことって、何でしょう?」
「あれを見なさい」
丹尾は滑走路をふり返った。しかし旅客機はそこになかった。乗客を全部おろした機体は、ゆるゆると引込線に移動しつつあった。丹尾はすこし拍子の抜けた表情になって言った。
「君に言ったって、しようのないことだが――」
「あんなこと、しょっちゅうあるんですか」
やや詰問(きつもん)的な口調で、丹尾は受付の女に言った。
「あんなことって、何でしょう?」
「あれを見なさい」
丹尾は滑走路をふり返った。しかし旅客機はそこになかった。乗客を全部おろした機体は、ゆるゆると引込線に移動しつつあった。丹尾はすこし拍子の抜けた表情になって言った。
「君に言ったって、しようのないことだが――」
丹尾さんって、お仕事柄なのか、きっちり言うことは言っておきたい、言わなきゃおられない性格で、つい言ってしまった。でも、受付の女の人はそんな情報は聞かされていない。ああ、何ということか。
だったら、言わなきゃいいのに! でも、言いたくなる人はいるんです。こういう人たちがいるおかげで、私みたいなグータラ系の人間も生きていけるんでしょう。
世の中、グータラ系と、キッパリ系と、質実系と、スポーツ系と、いろんな人がいるんだろうな。
さあ、カゴシマ市内に行かなくちゃ!