去年の夏に打ち込んでいた文章、今さらながら、取り上げさせていただきます。今度都会に出たら、また米原万里さんの作品集を買って来ようと思っています。
『魔女の1ダース』(新潮文庫 1999)は、プロローグのところで異端者はどんなにして作られ、疎外されてきたのか、というのをふり返っておられました。
高校のあたりから、聞きかじりで興味があった私でしたが、岩波新書『魔女狩り』という本は買い込みましたが、そのまま放置して何十年、今も放置したままで、改めて読まなきゃなあとは思いつつ、まだ読めてないんですよ。
13世紀以降17世紀末頃までヨーロッパ各地におけるキリスト教会の「魔女や悪霊」に対する弾圧は熾烈を極め、魔女狩り→拷問→魔女裁判→火刑という不条理で狂信的なやり方で10万人以上の人々が殺戮されている。
何かのきっかけで、世の中はものすごくヒステリックになります。ヨーロッパでは400年ほどヒステリックだったんでしょうか。少し怖いです。暗黒の中世だったのかなあ。
18世紀に入ると、より合理的な考えである啓蒙思想も普及していき、魔女裁判は次第に下火になっていった。
もっとも、その後の時代も、悪魔とか魔女とか悪霊とかいう言い方はしないものの、世界各地で魔女狩りは行われてきた。ヒットラー・ナチスの統治する第三帝国では、魔女は「ユダヤ人」と呼ばれていたし、大政翼賛会体制が国の隅々まで行き渡った大日本帝国では「非国民」、「アカ」と命名されていた。スターリンが独裁をしいたソビエト連邦では、「トロツキスト」とか「外国のスパイ」と名付けられ、マッカーシー旋風の吹き荒れたアメリカでは「アカ」と総称され、文化大革命のさなかの中華人民共和国では「反革命分子」という烙印を押されていたのは、まだ記憶に新しい。
そうですね。人々を集団催眠でヒステリックにさせて、ついでに自分の気に入らないものを排除していく。これは宗教でも何でもなくて、為政者が自分から視線を避けさせて、憎むべきものを作り上げていく。そうして人々の憎しみを焚きつけておけば、自分への風当たりはまるで来なくなるわけです。
人々も、とりあえず、それに乗っかって、誰かを憎んでおれば、自分にお鉢が回ってこない限りは、とことん憎しみを燃え上がらせることができたのです。世界で同じ仕組みで、為政者こそ問責されるべきなのに、犠牲者を作り上げる変てこなマツリが行われていた。
国民を急速かつ効率的に戦争遂行や権力掌握などの目的で強引に動員するときには、この魔女狩りというやり方が好んで用いられていた。全体主義には魔女は不可欠。画一的な一つの見方、一つの方向に国民を統制していくためには、異なる世界観や思想や行動様式や思考法の持ち主は血祭にあげなくてはならない。
もっともこういう体制はどれも長続きせず、惨憺たる終焉をむかえたのは周知のとおり。その後遺症は、その後も社会と人々を苦しめているが。
そういう歴史のふり返りをされていました。その通りだと思って、打ち込ませてもらった。そして、万里さんが本を出されてから24年後の今も、ロシアの変てこPは、「ネオナチがいるぞ!」とか、「ロシアに対してテロしているぞ」と、躍起になって魔女的なものを作ろうとしているみたいです。
彼の政権の断末魔なのだと思いたいです。