手元にあるのは、文春文庫で1981年に出ています。私の持っているものは、2007年の第33刷になっているようです。何度も増刷されているし、ずっと二十数年売れ続けてきたのでしょう。
それを私は、2009年に普通の本屋さんで買いました。買った後、10年寝かせておいて、この度ギックリ腰休暇の5日間の間に、もうすぐ読み終わるところまで読んできました。
そもそも私が買ったのは、この本の評判を聞いて買ったはずでした。
小林一茶は、少しだけ見聞きしただけであり、長野県の人だし、そんなにいい句も知らないし、「それいけ一茶ここにあり」くらいしか知りませんでした。
スズメ、ウマ、カエル、身のまわりの小動物を題材にして句を作る人だったんだろうか。そうした小さな生き物との連帯感は持っている人なのだ、というふうには理解していました。でも、それは、わりと簡単にできてしまうのではないの? 子どもでも、すぐに小さな生き物と一緒の世界を作れるのではないの? ただの子ども帰りした俳人さんですか?
いえ、違いますね。それはポーズであり、当時の大人がそんなことをしてみせることはなかったのです。たぶん、そういうことは禁じ手であり、それをやっちゃあ、おしまいよ、くらいの危ない句作りであったはずです。
意地悪な人が、わざと小動物を気にして見せて、「どうです。私って、こんな広い心と、こんな優しい視線を持っているんですよ。」というカッコつけが激しくて、好きにはなれませんでした。
小説を読み進めてみて、一茶さんを好きになれましたか?
そうなんです。今も、そんなには好きにはなれていません。もうあと20ページくらいで小説は終わると思うのですが、どういう着地点になるのか、まだ先が見えないのです。
十五歳で長野の柏原宿から江戸に出て行かされ、お店の奉公に出された人でした。そのまま普通にお勤めしていたら、やがてはお店でそれなりの位置を得て、それなりの商人(あきんど)として終われた人なのかもしれません。人生としては、たくさんの人々がやってきたような人生。そのルートに載らず、ドロップアウトして、お百姓さんにもならず、アキンドにもならず、ならず者の俳人になってしまった。
俳人ということは、自分の縄張りを持ち、その地域の旦那衆に取り入り、その人たちの庇護のもとで、文化的に寄生するしかないのです。持ち上げられもするし、他人から後ろ指も差されるし、浮き沈みもするし、とにかく不安定な暮らしです。
でも、一茶さんは、安定的な社会人にならず、お金持ちに寄生して芸を売る世界に入ってしまった。そうなると、とことん浮き草稼業で、各地を転々として、ほとぼりがさめたら、江戸にもどるような、江戸ではたいした儲けは得られず、とりあえず文化先進地で文化を極めているような人たちに交わる日々を送るのでした。
何十年経っても、浮き草稼業は続いていた。やがて、久しぶりに帰郷した折、自分を家から追い出した父から、財産を弟と半分ずつにさせるということばをもらいます。
このあたりから、小説は父への思い、継母との過去、弟との確執などを抱えて進み、やがて父の遺言通りに故郷に帰る、というところに進みます。
あちらこちらへ行ったり来たりしたこの小説の大事なところ、結局、一茶という人は何をした人で、句は残したけれど、彼の作品は、そんなに芸術的なものでもなくて、なぜか投げやりで、こびているようで、いったい何なのか、というところになるみたいです。
だから、淡々と二百数十ページまでで十五歳から晩年の帰郷までの数十年を読んできたことになっています。
まだ、最後がわかりませんが、推理小説ではないから、一茶さんが亡くなるところくらいで終わるのかな。そして、彼はどんな人生を歩いてきたのか、改めて読者に問うみたいなカタチになるのかな。
現在の私は? 昔、彼がやってたカッコつけ、それも許せるというのか、そんなふうにしてお高く留まっている奴らを笑う仕掛けみたいなものだったのかな、という気になっています。