昨日、仕事が立て込んで、実家には帰りませんでした。ブログもふてくされて休みにしました。そして、酔ってブロンブロンしていたそうです。この擬音語は、筋肉がゆるんで寝ているときに雑音が出る感じだそうです。
自分としても、体がゆるんでいる自覚はありますが、そのユルユルの音を聞いたことはありません。自分の声を聞いたことがないのと同じで、寝言・寝息はなかなか聞けません。とにかくうるさいみたいです。
というわけで(いつもつまらぬ前置きがありますね……)、伍子胥(ご・ししょ)さんのつづきです。
53【( )暮れて途遠し】……年老いて前途が遠く、容易に目的が達せられないことのたとえ。《伍子胥列伝》
54【天定まりてまた能く( )に勝つ】……悪人が一時栄えることがあるが、天が本来の力を発揮するようになると、悪人に懲罰を加えて滅ぼすようになる。《史記・伍子胥伝》 空欄に適当な漢字一字を入れてください。
伍子胥さんは楚の国の人でした。長江の真ん中あたりの国です。それが国を追われて長江の下流・海に近い地方の呉の国で将軍になりました。目的はただ1つ、父の仇を返すということでした。憎きは楚の王とその取り巻き連中でした。それらの人々に、お前たちは憎しみを振りまいていて、オレはその憎しみを晴らすためにお前たちを殺しに来たと、口上を述べたうえで、王たちをさらし者にして打ち首にでもしたかったのです。
考えてみれば、恐ろしい執念です。でも、それは1日でできたものではなくて、長年温めていたものがそれくらいに太ってきて、みごとに恨みを晴らす場面に来て、伍子胥さんもついつい「死屍(しし)にムチ打つ」ような、非道なことをしてしまいました。
この「死屍にムチ打つ」ということばが今も生きているとすれば、彼だけを取り上げるのは変で、人間ってそんなひどいけど、思い余ってそんなことをしてしまうことって、あるのかもしれない。
裁判が確定しても、遺族の気持ちはおさまらなくて、だれかターゲットをみつけ、その人たちも謝罪させたり、責任を取らせたり、ずっとそれを求め続けることだってあるでしょう。そうしなければ気が収まらないのかもしれない。そうすることが亡くなった人への供養である、そんな使命感でやる。
反省するべき人たちが、反省もしないで、すぐに忘れて、適当に暮らしていると思うと、いてもたってもいられなくなる。そういうことは理解できます。そういう無責任なヤツらって、たくさんいるような気がします。
だからといって、それをずっと続けるというのは、これはまた別のしんどさがある、と私なんかは思います。それができる人は、それだけ家族のことを思い続けているのでしょう。私にそれができるか、いざとなったら、するかもしれないけど、大変な辛さを抱えて生きていくことだけは確かで、それはそれの辛さがありますね。
伍子胥さんはわりと初期の段階で恨みを晴らすことはできました。彼の最大の目標は一応達成された。楚の都を占領し、王の墓をあばき、なきがらを引きずり出し、何百回となくムチでたたき続けた。もう魂はないので、ただ何かをたたいているだけです。でも、人はそれがなきがらだと知ると、「それはむごい」「そんなひどいことはやめてくだされ」と思ってしまうし、それを伝えることだって辞さないのです。
抗議をする人が現れました。申包胥(しん・ぽうしょ)という人です。楚にいるころにはお互いに交流のあった人でした。
楚を去るとき、伍子胥さんは「いつかかならず楚を転覆させてみせる」と宣言します。
すると包胥さんは、「私は必ず楚を存続してみせる」と返したそうです。
子胥さんが「死屍(しし)にムチ打つ」ようなことをしたと聞き、包胥さんは言います。
(友だちだからか、名前も韻を踏んでいます。何だか不思議です)
「きみの復讐の仕方は何とひどいことか。私はこう聞いている。『人は多数をたのむとき、一時は天道に勝つが、天道が定まれば、また……を破る』と。きみは、もとは平王の家臣であり、親しく王に仕えた身なのに、いまや、そのしかばねを辱めるに至った。これでは、いつか因果はめぐって、天道が定まってまた……を破るときが来ると思うよ。」と。
伍子胥さんは答えます。「このように彼に伝えてほしい。私は、素志を遂げるのに、……は暮れて道が遠かったのだ。だから、うろたえ急ぎ、道理に従って行うといういとまがなかったのである。」と。
私は、伍子胥さんの焦りと激情を理解することはできます。ドラマチックというのか、そこまでやれる人なのだと思います。でも、いつも彼のまわりにはいろんな人がいて、会話が交わされて、その度にいろいろ考えさせられたと思うのですが、彼はやってしまう人だから、今回もやってしまった。
兄弟について、書かなきゃいけなかったですけど、有名なことばを取り上げて終わりです。
答え 53・日 54・人(天と人との対比のことばですね)
自分としても、体がゆるんでいる自覚はありますが、そのユルユルの音を聞いたことはありません。自分の声を聞いたことがないのと同じで、寝言・寝息はなかなか聞けません。とにかくうるさいみたいです。
というわけで(いつもつまらぬ前置きがありますね……)、伍子胥(ご・ししょ)さんのつづきです。
53【( )暮れて途遠し】……年老いて前途が遠く、容易に目的が達せられないことのたとえ。《伍子胥列伝》
54【天定まりてまた能く( )に勝つ】……悪人が一時栄えることがあるが、天が本来の力を発揮するようになると、悪人に懲罰を加えて滅ぼすようになる。《史記・伍子胥伝》 空欄に適当な漢字一字を入れてください。
伍子胥さんは楚の国の人でした。長江の真ん中あたりの国です。それが国を追われて長江の下流・海に近い地方の呉の国で将軍になりました。目的はただ1つ、父の仇を返すということでした。憎きは楚の王とその取り巻き連中でした。それらの人々に、お前たちは憎しみを振りまいていて、オレはその憎しみを晴らすためにお前たちを殺しに来たと、口上を述べたうえで、王たちをさらし者にして打ち首にでもしたかったのです。
考えてみれば、恐ろしい執念です。でも、それは1日でできたものではなくて、長年温めていたものがそれくらいに太ってきて、みごとに恨みを晴らす場面に来て、伍子胥さんもついつい「死屍(しし)にムチ打つ」ような、非道なことをしてしまいました。
この「死屍にムチ打つ」ということばが今も生きているとすれば、彼だけを取り上げるのは変で、人間ってそんなひどいけど、思い余ってそんなことをしてしまうことって、あるのかもしれない。
裁判が確定しても、遺族の気持ちはおさまらなくて、だれかターゲットをみつけ、その人たちも謝罪させたり、責任を取らせたり、ずっとそれを求め続けることだってあるでしょう。そうしなければ気が収まらないのかもしれない。そうすることが亡くなった人への供養である、そんな使命感でやる。
反省するべき人たちが、反省もしないで、すぐに忘れて、適当に暮らしていると思うと、いてもたってもいられなくなる。そういうことは理解できます。そういう無責任なヤツらって、たくさんいるような気がします。
だからといって、それをずっと続けるというのは、これはまた別のしんどさがある、と私なんかは思います。それができる人は、それだけ家族のことを思い続けているのでしょう。私にそれができるか、いざとなったら、するかもしれないけど、大変な辛さを抱えて生きていくことだけは確かで、それはそれの辛さがありますね。
伍子胥さんはわりと初期の段階で恨みを晴らすことはできました。彼の最大の目標は一応達成された。楚の都を占領し、王の墓をあばき、なきがらを引きずり出し、何百回となくムチでたたき続けた。もう魂はないので、ただ何かをたたいているだけです。でも、人はそれがなきがらだと知ると、「それはむごい」「そんなひどいことはやめてくだされ」と思ってしまうし、それを伝えることだって辞さないのです。
抗議をする人が現れました。申包胥(しん・ぽうしょ)という人です。楚にいるころにはお互いに交流のあった人でした。
楚を去るとき、伍子胥さんは「いつかかならず楚を転覆させてみせる」と宣言します。
すると包胥さんは、「私は必ず楚を存続してみせる」と返したそうです。
子胥さんが「死屍(しし)にムチ打つ」ようなことをしたと聞き、包胥さんは言います。
(友だちだからか、名前も韻を踏んでいます。何だか不思議です)
「きみの復讐の仕方は何とひどいことか。私はこう聞いている。『人は多数をたのむとき、一時は天道に勝つが、天道が定まれば、また……を破る』と。きみは、もとは平王の家臣であり、親しく王に仕えた身なのに、いまや、そのしかばねを辱めるに至った。これでは、いつか因果はめぐって、天道が定まってまた……を破るときが来ると思うよ。」と。
伍子胥さんは答えます。「このように彼に伝えてほしい。私は、素志を遂げるのに、……は暮れて道が遠かったのだ。だから、うろたえ急ぎ、道理に従って行うといういとまがなかったのである。」と。
私は、伍子胥さんの焦りと激情を理解することはできます。ドラマチックというのか、そこまでやれる人なのだと思います。でも、いつも彼のまわりにはいろんな人がいて、会話が交わされて、その度にいろいろ考えさせられたと思うのですが、彼はやってしまう人だから、今回もやってしまった。
兄弟について、書かなきゃいけなかったですけど、有名なことばを取り上げて終わりです。
答え 53・日 54・人(天と人との対比のことばですね)