こんなことを突然ノートに書いてきたら、担当の先生はビックリですが、地学担当のタケモト先生はあっさりと受け入れてくださいました。なんとふところの広い、おおらかな学校だったんでしょう!
「狭山裁判」を読む[1977.11月上旬の地学実験ノートの感想コーナーより]
ただ今は、野間宏著「狭山裁判」(1976 岩波新書)を読んでいます。このことには関わらないことにしていると言った友もいたし、わからないと言った友もいました。
そうです。僕も実際わからないから、どうしてこう叫ばれているのだろう? その内容を知りたい〈ゆかしさ〉が増して、本屋に行って買ったのであります。買う動機には、人権討論のため、もありました。
けれど、もっと大きな動機は、環状線から見下ろしたとき、我が校の道路に面したネットのところに、黄色の板に黒で目立つように掲げられた「狭山………」と書いた看板が、最大の動機だと思います。ああやってることは、一種の宣伝活動だという先生もおられました。あれは定時制の生徒会が主催して張り付けたのだとも聞かされました。定時制の一般生徒はいざしらず、されど、全日制の一般生徒は、少なからず迷惑がっています。行き過ぎだとも、思います。そして、定時制生徒会のみの先走りで、他の人は無関心であるのではないのか、と気遣ってもいます。
もし、先走りなら、あまりつまらぬ虚名ばかりを積み重ねるだけで、肝心の「糾弾」「即時釈放」はむなしくなるばかりだ、と思います。(地学の先生はここで、『正しく批判していこうナー、また、そのためにも我々は、何に限らず正確な知識を身につけていこうナ』、とコメントを書いてくれています)
はっきりと「あの看板をはったのはいけないのだ」と言い切る自信はありません。しかし、何のためにはったのだというと、はった人自身も答えに困ると思います。その人も、はっただけで、差別裁判が糾弾でき、即時釈放が行われるのだ、とは信じてないと思います。信じている人もいるかもしれませんが、その人はよっぽどの人だと思います。そう簡単に物事は運ばれないものだ、とえらそうに僕はいばって言い切れます。
あれは純粋な青年活動から脇道にそれたような、宣伝活動にすぎなくなるかもしれません。そうなると、いく分むなしい、ような気がします。
まだ本は途中だし、野間宏氏だけでは(事件の全容を?)つかみきれぬものもあるかもしれません。「無実だ」とか「有罪だ」とか、とても言い切ることのできない自分です。でも、ああいった看板を見ると、多少身近に感じる今の自分です。いよいよ真相を、社会を、日本を知ってみたくなる自分です。だから、もっとやれ、もっとやれ、とけしかけてみたくなる時もあります。(地学の先生はここで、『付和雷同して自身が行動することって、はたして正しいでしょうか?』とコメントを書いてくれています)
しかし、母校を愛する自分としては、他人にその名を悪く思われたくはありません。できれば、よく思われたい。だいたい狭山事件についても、風説が飛び、はっきり知らないけれど、反感を持ったり、共感を持ったりしている人がたくさんいて、あの看板を悪く思う人もいるかと思うと、どちらかというと、偏った方向には進んで欲しくない。一部の者が引っ張る生徒会、わが校ではないのだ、と知らしめてやりたい。
先走りが共感を買うか、反感を買うかというと、反感が多いのではと思う。内部においては空転し、外部においては悪印象を与えるとしたら、それは看板をはった人の意に反して、空虚なむなしい方向に進んでしまうのではないかと思った。
もちろん、狭山事件の真相が、この看板を機会に開かれていくかもしれないが、そうだとすると、……どうしたらいいのだろう。
高校1年生のKは、なにも真相を知らないくせに、プロパガンダの看板には批判的だった。いやむしろ、当時の大阪ではそのような政治的メッセージが校内に掲げられていたこと自体が衝撃的だが、確かにそういうことがあったらしい。
今となっては、あれから30年以上経過しているのに、何もしない政府の方がいけないような気がするが、一個人に対する政府というものは、日本においてはおおよそそのようなものなのだろう。いかに叫ぼうが、市民運動が盛り上がろうとも、拉致問題が全く解決しないのと同じで、政府は簡単に一個人を見殺しにする。
というよりも、そういうこを考えるために政府はあるのではないようだ。
個人は、個人として自分を守るしかないのである。
高1の秋、日本が武装化するということでクラスが話し合ったことがあった。
Kはクラスメートはみんな「軍備など持つべきではない」と思っているだろうと思っていた。
ところがクラスでの討論会の流れは違っていた。完全にKは少数派で不利不利の、大マイナーであった。
「どうして非武装中立などという非現実的なことを言うのか」とか、
「そんなことを言ってるから、お前は勉強ができないんだよ」という感じで、議論では負けてしまう。
世の中には相容れない意見の対立というものが存在し、少数派は泣く泣く多数派の意見を受け入れることがあるのだと知る。ここでもKはいつもの屈辱感を味わわされる。
その結果というわけでもないだろうが、たとえ少数派であっても、そこに視点をおいて人とは違う意見が言える人間になろう、と居直る気持ちがKの心の中に芽生えたような気がする。
電車通学で、環状線の芦原橋を通る辺りで、「石川青年を返せ! 狭山差別裁判糾弾」などのスローガンを日常的に目にしていた。そして何だろうと疑問を持ち、クラスの人権討論の時間に話し合った。
それはKが2年生の秋のことであった。とにかくKは、文学少年のキャラを守るべく、岩波新書で出ていた野間宏の「狭山裁判」読む。内容は理解できない部分もあったが、これは理不尽な事件であり、警察・国家権力の非道を知り、なんとかしたい気持ちにはなった。
その思いをクラスの討論の場に持ち込んだのである。けれども、あまり上手に説明できず、例によって挫折感を味わった。ただ、こうして変にムキになる姿を周囲の人に見せることはできて、少数派がほざいているのはわかってもらえたはずだ。
みんなどこでどう転ぶかわからず、生きてきた中で何かの印象を少しずつ与えながら生きるのであり、ここでKだって少しは何かの役には立ったのだろう。そして、K自身は「狭山裁判」を心の中に沈潜させ、いつか何とかしたいという気持ちは残した。一つのきっかけである。
Kの高校は、当時としては変わった教育をしてくれていた。
遠足はクラスで自由にでかけたり、下見と称して生徒が自発的に、放課後六甲山に歩きに行ったり、自由な気風というか、生徒たちに何かを生み出させる伝統があった。そのおかげで狭山裁判だって個人の自由で学習することもできたのである。
夏休みの国語科の宿題で、在日韓国人の作家の金達寿(きむたるす)さんや李恢成(いふぇそん)さんらの作品を読んで感想文を書くというものもあった。これまた、全く知らない世界で、何度か書店へ出かけ、やっと購入して感想文を書かされたりもした。
ちょうどそのころ、たまたまバスで韓国から来日したという学生に声をかけられることがあり、まだまだ東アジアの人々への偏見や嫌悪感を漠然と持っていたKが、ほんの何分かの会話で、それらがすべてポロポロ偏見が落ちていく瞬間も経験したり、ドラマチックな日々であった。
これには学校が与えてくれたきっかけが必要だったのであり、何の前置きなく出会っていたら、偏見は体にひっついたままだったかもしれない。「気」は大切である。その「気」は、ひょんなことから生まれ、ぼんやりしていたらどんどん過ぎていってしまう。今からでも「気」の読める人になりたいものだ。
それから三十年以上過ぎた。現在も石川さんは死刑囚のままだ。再審は行われず、このまま歴史の闇に消そうと考えている人がいるとしか思えない状況だ。
Kはもっと知らなければならない。もっと人に語らなければならない。もっと人と連帯しなければならないと思う。けれども、それができていない。もっと地学の先生みたいに、やさしく的確なアドバイスのできる大人になれないものだろうか。
「狭山裁判」を読む[1977.11月上旬の地学実験ノートの感想コーナーより]
ただ今は、野間宏著「狭山裁判」(1976 岩波新書)を読んでいます。このことには関わらないことにしていると言った友もいたし、わからないと言った友もいました。
そうです。僕も実際わからないから、どうしてこう叫ばれているのだろう? その内容を知りたい〈ゆかしさ〉が増して、本屋に行って買ったのであります。買う動機には、人権討論のため、もありました。
けれど、もっと大きな動機は、環状線から見下ろしたとき、我が校の道路に面したネットのところに、黄色の板に黒で目立つように掲げられた「狭山………」と書いた看板が、最大の動機だと思います。ああやってることは、一種の宣伝活動だという先生もおられました。あれは定時制の生徒会が主催して張り付けたのだとも聞かされました。定時制の一般生徒はいざしらず、されど、全日制の一般生徒は、少なからず迷惑がっています。行き過ぎだとも、思います。そして、定時制生徒会のみの先走りで、他の人は無関心であるのではないのか、と気遣ってもいます。
もし、先走りなら、あまりつまらぬ虚名ばかりを積み重ねるだけで、肝心の「糾弾」「即時釈放」はむなしくなるばかりだ、と思います。(地学の先生はここで、『正しく批判していこうナー、また、そのためにも我々は、何に限らず正確な知識を身につけていこうナ』、とコメントを書いてくれています)
はっきりと「あの看板をはったのはいけないのだ」と言い切る自信はありません。しかし、何のためにはったのだというと、はった人自身も答えに困ると思います。その人も、はっただけで、差別裁判が糾弾でき、即時釈放が行われるのだ、とは信じてないと思います。信じている人もいるかもしれませんが、その人はよっぽどの人だと思います。そう簡単に物事は運ばれないものだ、とえらそうに僕はいばって言い切れます。
あれは純粋な青年活動から脇道にそれたような、宣伝活動にすぎなくなるかもしれません。そうなると、いく分むなしい、ような気がします。
まだ本は途中だし、野間宏氏だけでは(事件の全容を?)つかみきれぬものもあるかもしれません。「無実だ」とか「有罪だ」とか、とても言い切ることのできない自分です。でも、ああいった看板を見ると、多少身近に感じる今の自分です。いよいよ真相を、社会を、日本を知ってみたくなる自分です。だから、もっとやれ、もっとやれ、とけしかけてみたくなる時もあります。(地学の先生はここで、『付和雷同して自身が行動することって、はたして正しいでしょうか?』とコメントを書いてくれています)
しかし、母校を愛する自分としては、他人にその名を悪く思われたくはありません。できれば、よく思われたい。だいたい狭山事件についても、風説が飛び、はっきり知らないけれど、反感を持ったり、共感を持ったりしている人がたくさんいて、あの看板を悪く思う人もいるかと思うと、どちらかというと、偏った方向には進んで欲しくない。一部の者が引っ張る生徒会、わが校ではないのだ、と知らしめてやりたい。
先走りが共感を買うか、反感を買うかというと、反感が多いのではと思う。内部においては空転し、外部においては悪印象を与えるとしたら、それは看板をはった人の意に反して、空虚なむなしい方向に進んでしまうのではないかと思った。
もちろん、狭山事件の真相が、この看板を機会に開かれていくかもしれないが、そうだとすると、……どうしたらいいのだろう。
高校1年生のKは、なにも真相を知らないくせに、プロパガンダの看板には批判的だった。いやむしろ、当時の大阪ではそのような政治的メッセージが校内に掲げられていたこと自体が衝撃的だが、確かにそういうことがあったらしい。
今となっては、あれから30年以上経過しているのに、何もしない政府の方がいけないような気がするが、一個人に対する政府というものは、日本においてはおおよそそのようなものなのだろう。いかに叫ぼうが、市民運動が盛り上がろうとも、拉致問題が全く解決しないのと同じで、政府は簡単に一個人を見殺しにする。
というよりも、そういうこを考えるために政府はあるのではないようだ。
個人は、個人として自分を守るしかないのである。
高1の秋、日本が武装化するということでクラスが話し合ったことがあった。
Kはクラスメートはみんな「軍備など持つべきではない」と思っているだろうと思っていた。
ところがクラスでの討論会の流れは違っていた。完全にKは少数派で不利不利の、大マイナーであった。
「どうして非武装中立などという非現実的なことを言うのか」とか、
「そんなことを言ってるから、お前は勉強ができないんだよ」という感じで、議論では負けてしまう。
世の中には相容れない意見の対立というものが存在し、少数派は泣く泣く多数派の意見を受け入れることがあるのだと知る。ここでもKはいつもの屈辱感を味わわされる。
その結果というわけでもないだろうが、たとえ少数派であっても、そこに視点をおいて人とは違う意見が言える人間になろう、と居直る気持ちがKの心の中に芽生えたような気がする。
電車通学で、環状線の芦原橋を通る辺りで、「石川青年を返せ! 狭山差別裁判糾弾」などのスローガンを日常的に目にしていた。そして何だろうと疑問を持ち、クラスの人権討論の時間に話し合った。
それはKが2年生の秋のことであった。とにかくKは、文学少年のキャラを守るべく、岩波新書で出ていた野間宏の「狭山裁判」読む。内容は理解できない部分もあったが、これは理不尽な事件であり、警察・国家権力の非道を知り、なんとかしたい気持ちにはなった。
その思いをクラスの討論の場に持ち込んだのである。けれども、あまり上手に説明できず、例によって挫折感を味わった。ただ、こうして変にムキになる姿を周囲の人に見せることはできて、少数派がほざいているのはわかってもらえたはずだ。
みんなどこでどう転ぶかわからず、生きてきた中で何かの印象を少しずつ与えながら生きるのであり、ここでKだって少しは何かの役には立ったのだろう。そして、K自身は「狭山裁判」を心の中に沈潜させ、いつか何とかしたいという気持ちは残した。一つのきっかけである。
Kの高校は、当時としては変わった教育をしてくれていた。
遠足はクラスで自由にでかけたり、下見と称して生徒が自発的に、放課後六甲山に歩きに行ったり、自由な気風というか、生徒たちに何かを生み出させる伝統があった。そのおかげで狭山裁判だって個人の自由で学習することもできたのである。
夏休みの国語科の宿題で、在日韓国人の作家の金達寿(きむたるす)さんや李恢成(いふぇそん)さんらの作品を読んで感想文を書くというものもあった。これまた、全く知らない世界で、何度か書店へ出かけ、やっと購入して感想文を書かされたりもした。
ちょうどそのころ、たまたまバスで韓国から来日したという学生に声をかけられることがあり、まだまだ東アジアの人々への偏見や嫌悪感を漠然と持っていたKが、ほんの何分かの会話で、それらがすべてポロポロ偏見が落ちていく瞬間も経験したり、ドラマチックな日々であった。
これには学校が与えてくれたきっかけが必要だったのであり、何の前置きなく出会っていたら、偏見は体にひっついたままだったかもしれない。「気」は大切である。その「気」は、ひょんなことから生まれ、ぼんやりしていたらどんどん過ぎていってしまう。今からでも「気」の読める人になりたいものだ。
それから三十年以上過ぎた。現在も石川さんは死刑囚のままだ。再審は行われず、このまま歴史の闇に消そうと考えている人がいるとしか思えない状況だ。
Kはもっと知らなければならない。もっと人に語らなければならない。もっと人と連帯しなければならないと思う。けれども、それができていない。もっと地学の先生みたいに、やさしく的確なアドバイスのできる大人になれないものだろうか。