旭川から、あっさりと稚内に到着しました。今なら、わりと簡単に行けるかもしれないけれど(私は、行ったことがないので断言できません。一応鉄路はつながっています。でも、接続が悪かったり、本数がなかったりするんじゃないかな……)、賢治さんはすぐに樺太行きの船に乗り込んだようです。
樺太、現在のサハリン島は、とても細長い島で、千キロほどあるそうです。東京からだと小樽や、陸続きであれば岡山・広島くらいの距離ではないですか。それを江戸時代の間宮林蔵さんは船や歩きで、未知なき道を現地の人々の案内を受けて北上したのです。最北端まで歩き、海峡を渡って中国奥地まで探検してしまった。
ものすごい距離を、ズンズン歩いていった昔の人のたくましさを感じます。それにくらべて私たちは、日常にしばられて、三重県さえめったに出ることはありません。まして海の外へ飛び出ることなど一切なくて、ずーっとこの少し不安定な島の、小さな大地の上に住んでいます。
賢治さんは、妹さんの魂を探す旅に出ています。「青森挽歌」のキョトンとした感じは少し薄れて、「旭川」ではお仕事を頑張っているみたいでした。何だか吹っ切れたのかなと思っていました。
でも、稚内や宗谷海峡の上を進んでいくと、気持ちは自然と重くなってきたようです。私も、いつか同じような季節に、この海峡を船で渡ってみたいなあと思っています。この夢は、将来達成できるとうれしいんですけど……。
1番近くて、1番気持ち的には遠い国のロシアへ、船でなら数時間辛抱したら、たどりつけちゃうんですから、一度行ってみたいです。そして、サハリン島の鉄道にも乗ってみたいですね。そしたら、わりと簡単にタイムスリップできそうな気がします。あまり確証はなくて、ただの希望的観測ですけど、賢治さんの頃のような感覚が味わえないかなあと思います。というか、思うのは自由だから、無理矢理イメージしたらいいんですけどね。
宗谷挽歌
こんな誰も居ない夜の甲板(かんぱん)で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或いは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖(いんがれんさ)になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
紫いろのうすものを着て
まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸(いっしょ)に行ってやらないだらう。
船の上の賢治さんは、いよいよ樺太に行くのだ、向こうは北の果てで、そこに妹のとし子さんの魂がいるんじゃないのか、そんな気持ちが、ほんの少しだけ起こっているようです。
とし子さんは、みんなに送られて、たくさん悲しんでもらって、静かにこの世からいなくなった。ただ、お兄さんの賢治さんの心には、はっきりと妹さんの姿が刻まれているし、つい数ヶ月前の姿が、今目の前にあっても不思議ではないくらい、リアルに感じ取れています。
事実としては、いないのはわかっている。わかっているけど、探してしまう。このどっちにも落ち着かない気持ちを抱え、ひょっとして妹の魂が感じられるのではと、とにかく北をめざしている。今はその船の上です。
船員たちの黒い影は
水と小さな船燈(ランプ)との
微光の中を往来して
現に誰かは上甲板にのぼって行った。
船は間もなく出るだらう。
稚内(わっかない)の電燈は一列とまり
その灯の影は水にうつらない。
潮風と霧にしめった舷(げん)に
その影は年老ったしっかりした船員だ。
私をあやしんで立ってゐる。
霧がばしゃばしゃ降って来る。
帆綱(ほづな)の小さな電燈がいま移転し
怪しくも点ぜられたその首燈、
実にいちめん霧がぼしゃぼしゃ降ってゐる。
降ってゐるよりは湧いて昇ってゐる。
あかしがつくる青い光の棒を
超絶顕微鏡(ちようぜつけんびきょう)の下の微粒子のやうに
どんどんどんどん流れてゐる。
(根室の海温と金華山沖の海温
大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)
船に乗ったばかりだったようです。出航の作業が賢治さんの目の前で行われています。いまかいまかと待っていると、なかなか船は出てくれないものです。いざ海の上に出てみると、延々と海の上をどこまでも走っていくような、限りない水の連続がつづくのだけれど、港においては実にゆっくりと作業は続く。
漁船ならホイッと出てしまうかもしれませんが、客船ならなかなかです。海面がわからないくらい霧が出ているようです。8月とはいえ、薄ら寒いかもしれません。賢治さんは「寒さの夏はオロオロ歩く」人だから、夏の冷温には敏感だったでしょうね。農業実践者として、北海道の北の海でも感じていたでしょう。
帆綱の影はぬれたデックに落ち
津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。
下の船室の前の廊下を通り
上手に銅鑼(どら)は擦られてゐる。
鉛筆がずゐぶんす早く
小刀をあてない前に削げた。
頑丈さうな赤髯(あかひげ)の男がやって来て
私の横に立ちその影のために
私の鉛筆の心はうまく折れた。
こんな鉛筆はやめてしまへ
海へ投げることだけは遠慮して
黄いろのポケットにしまってしまへ。
霧がいっそうしげくなり
私の首すぢはぬれる。
浅黄服(あさぎふく)の若い船員がたのしさうに走って来る。
「雨が降って来たな。」
「イヽス。」
「イヽスて何だ。」
「雨ふりだ、雨が降って来たよ。」
「瓦斯(ガス)だよ、霧だよ、これは。」
乗組員たちも、出航の作業にウキウキしているようです。「了解」というのを「イイス」とは、なんだかふざけているみたいだけど、こんな船員さんの姿も、いよいよ樺太に向かうのだという気持ちを高めてくれたでしょうか。
とはいえ、賢治さんは、自分が妹さんの影をしょっているのを意識していて、他人から見たら、陰気な旅行者に見えるんじゃないかという自覚は持っていた。
若い人は、そういう自分を無視して、自分たちの世界にいてくれるから、全く傍観者として、もしくは旅人として見ていられます。でも、ベテランの船員さんは、何か目がギロッとしてスキがなく、自分は監視されているんじゃないの? とふと思ってしまったりします。
わざわざエンピツを削らなくてもいいのに、詩を手帳に書き込むためには、やはりエンピツ削らなきゃダメだったんですね。そうしたら、船の中が暗いから、すぐに削りすぎて、芯が折れてしまう。本当にじれったい思いを抱えながらも、いよいよ海を渡ることになるようです。
樺太、現在のサハリン島は、とても細長い島で、千キロほどあるそうです。東京からだと小樽や、陸続きであれば岡山・広島くらいの距離ではないですか。それを江戸時代の間宮林蔵さんは船や歩きで、未知なき道を現地の人々の案内を受けて北上したのです。最北端まで歩き、海峡を渡って中国奥地まで探検してしまった。
ものすごい距離を、ズンズン歩いていった昔の人のたくましさを感じます。それにくらべて私たちは、日常にしばられて、三重県さえめったに出ることはありません。まして海の外へ飛び出ることなど一切なくて、ずーっとこの少し不安定な島の、小さな大地の上に住んでいます。
賢治さんは、妹さんの魂を探す旅に出ています。「青森挽歌」のキョトンとした感じは少し薄れて、「旭川」ではお仕事を頑張っているみたいでした。何だか吹っ切れたのかなと思っていました。
でも、稚内や宗谷海峡の上を進んでいくと、気持ちは自然と重くなってきたようです。私も、いつか同じような季節に、この海峡を船で渡ってみたいなあと思っています。この夢は、将来達成できるとうれしいんですけど……。
1番近くて、1番気持ち的には遠い国のロシアへ、船でなら数時間辛抱したら、たどりつけちゃうんですから、一度行ってみたいです。そして、サハリン島の鉄道にも乗ってみたいですね。そしたら、わりと簡単にタイムスリップできそうな気がします。あまり確証はなくて、ただの希望的観測ですけど、賢治さんの頃のような感覚が味わえないかなあと思います。というか、思うのは自由だから、無理矢理イメージしたらいいんですけどね。
宗谷挽歌
こんな誰も居ない夜の甲板(かんぱん)で
(雨さへ少し降ってゐるし、)
海峡を越えて行かうとしたら、(漆黒の闇のうつくしさ。)
私が波に落ち或いは空に擲げられることがないだらうか。
それはないやうな因果連鎖(いんがれんさ)になってゐる。
けれどももしとし子が夜過ぎて
どこからか私を呼んだなら
私はもちろん落ちて行く。
とし子が私を呼ぶといふことはない
呼ぶ必要のないとこに居る。
もしそれがさうでなかったら
(あんなひかる立派なひだのある
紫いろのうすものを着て
まっすぐにのぼって行ったのに。)
もしそれがさうでなかったら
どうして私が一諸(いっしょ)に行ってやらないだらう。
船の上の賢治さんは、いよいよ樺太に行くのだ、向こうは北の果てで、そこに妹のとし子さんの魂がいるんじゃないのか、そんな気持ちが、ほんの少しだけ起こっているようです。
とし子さんは、みんなに送られて、たくさん悲しんでもらって、静かにこの世からいなくなった。ただ、お兄さんの賢治さんの心には、はっきりと妹さんの姿が刻まれているし、つい数ヶ月前の姿が、今目の前にあっても不思議ではないくらい、リアルに感じ取れています。
事実としては、いないのはわかっている。わかっているけど、探してしまう。このどっちにも落ち着かない気持ちを抱え、ひょっとして妹の魂が感じられるのではと、とにかく北をめざしている。今はその船の上です。
船員たちの黒い影は
水と小さな船燈(ランプ)との
微光の中を往来して
現に誰かは上甲板にのぼって行った。
船は間もなく出るだらう。
稚内(わっかない)の電燈は一列とまり
その灯の影は水にうつらない。
潮風と霧にしめった舷(げん)に
その影は年老ったしっかりした船員だ。
私をあやしんで立ってゐる。
霧がばしゃばしゃ降って来る。
帆綱(ほづな)の小さな電燈がいま移転し
怪しくも点ぜられたその首燈、
実にいちめん霧がぼしゃぼしゃ降ってゐる。
降ってゐるよりは湧いて昇ってゐる。
あかしがつくる青い光の棒を
超絶顕微鏡(ちようぜつけんびきょう)の下の微粒子のやうに
どんどんどんどん流れてゐる。
(根室の海温と金華山沖の海温
大正二年の曲線と大へんよく似てゐます。)
船に乗ったばかりだったようです。出航の作業が賢治さんの目の前で行われています。いまかいまかと待っていると、なかなか船は出てくれないものです。いざ海の上に出てみると、延々と海の上をどこまでも走っていくような、限りない水の連続がつづくのだけれど、港においては実にゆっくりと作業は続く。
漁船ならホイッと出てしまうかもしれませんが、客船ならなかなかです。海面がわからないくらい霧が出ているようです。8月とはいえ、薄ら寒いかもしれません。賢治さんは「寒さの夏はオロオロ歩く」人だから、夏の冷温には敏感だったでしょうね。農業実践者として、北海道の北の海でも感じていたでしょう。
帆綱の影はぬれたデックに落ち
津軽海峡のときと同じどらがいま鳴り出す。
下の船室の前の廊下を通り
上手に銅鑼(どら)は擦られてゐる。
鉛筆がずゐぶんす早く
小刀をあてない前に削げた。
頑丈さうな赤髯(あかひげ)の男がやって来て
私の横に立ちその影のために
私の鉛筆の心はうまく折れた。
こんな鉛筆はやめてしまへ
海へ投げることだけは遠慮して
黄いろのポケットにしまってしまへ。
霧がいっそうしげくなり
私の首すぢはぬれる。
浅黄服(あさぎふく)の若い船員がたのしさうに走って来る。
「雨が降って来たな。」
「イヽス。」
「イヽスて何だ。」
「雨ふりだ、雨が降って来たよ。」
「瓦斯(ガス)だよ、霧だよ、これは。」
乗組員たちも、出航の作業にウキウキしているようです。「了解」というのを「イイス」とは、なんだかふざけているみたいだけど、こんな船員さんの姿も、いよいよ樺太に向かうのだという気持ちを高めてくれたでしょうか。
とはいえ、賢治さんは、自分が妹さんの影をしょっているのを意識していて、他人から見たら、陰気な旅行者に見えるんじゃないかという自覚は持っていた。
若い人は、そういう自分を無視して、自分たちの世界にいてくれるから、全く傍観者として、もしくは旅人として見ていられます。でも、ベテランの船員さんは、何か目がギロッとしてスキがなく、自分は監視されているんじゃないの? とふと思ってしまったりします。
わざわざエンピツを削らなくてもいいのに、詩を手帳に書き込むためには、やはりエンピツ削らなきゃダメだったんですね。そうしたら、船の中が暗いから、すぐに削りすぎて、芯が折れてしまう。本当にじれったい思いを抱えながらも、いよいよ海を渡ることになるようです。