中学を卒業して40年くらいになります。私は後ろから写真を撮ると、左の頭頂が薄くなっているようで、それは横から見てもわかるようです。知らぬ本人ばかりなりで、さみしい頭になってきたらしいと漠然と思います。
奥さんは、「そんなの当たり前だし、前から知っている」と言います。
そうかもしれないけれど、本人としてはまだ納得できていなくて、写真でだけは虚構のモノが写っていて、「実際は毛があるんじゃないの?」とのんきに構えてますが、たぶん写真の方が事実なのでしょう。
まあ、いいです。人が何と言おうと、ハゲてるかもしれないけれど、自分の目で見てはいないので、たぶんこのままずっと見ることはないと思うので、……合わせ鏡でもすれば見られるのでしょうか? まあ、そんな無理することはないので……正面から鏡で見て、立派なハゲチャビンなのだとわかるまでは、たぶんまた毛が生えてくるかも! と思うことにします。不毛の思案ですけどね。
それで、中学卒業から40年ほどが経過して、突然この秋に同窓会を開かれたそうです。クラスは11組まであって、500名ほどの卒業生がいたわけだから、何百人と集まれば良かったのだけれど、35名の同窓生が集まったそうです。それでもよくみんな集まったなあと感心したりします。
送ってもらった写真を見ていると、自分も参加したかった気持ちがフツフツと湧いてきますが、残念ながらその日は仕事だったので、集まったメンバーの顔を写真でながめるだけです。
以前にも書いたY先生がゲストでした。そのまわりに35人のオッチャン・オバチャンがポーズを取っています。ああ、この人はあの人だとすぐわかる人と、全く見たこともないようなオバチャンもいます。たくさん同期生がいたわけですから、知らない子がいても不思議ではないけれど、それにしてもみんな年食ったなあと思います。
まあ、私たちはもう写真を撮られる年代ではないのかもしれません。というか、それなりに自分の味は持っているのだろうけれど、集合写真になると、その味はふっ飛んでしまって、ただのふるぼけた年代になってしまいます。女性もそれなりだし、男性たちもそれなりで、集合写真はただの記録であって、その人の味を映せるモノではないようです。それぞれの味は、そばにいてじんわり感じられるモノだし、写真はもっと個に向き合わないと、それは写せないようです。
彼女たちや彼たちとことばを交わせたなら、その写真も違った味わいが出たかもしれないけれど、不参加だった私は、ただ大阪で年を重ねた仲間たちの今をチラッとみせてもらい、彼ら彼女らと自分の時間を重ね合わせるだけです。
そうでした。うちの奥さんも同級生でした。高校までは違うし、育ったところも違うけれど、年代としては同じだから、彼女とはいつも同じ時間を、時々は生活空間は違うときもあるけれど、ずっと同じように経過し、時々はお互いを振り返りながら、ともに手を取り合って過ごしてきたんでした。これは有り難いことですね。だから、ちかごろはあまりおしゃべりをしなくなってしまって、こりゃ、良くない傾向だなと思うのですが、私自身がカラッポで、何も自分から発するモノがありません。
どうしたらいいのかなあ。せっかくの同級生夫婦なのに、なんだかもったいないです。
まあ、それはおいおい努力します。何か話題がないとダメですね。私は近ごろ本は読まないし、映画も見ないし、野球だってすぐ飽きてしまってテレビを消してしまうし、なかなか共通の話題がないですね。
五郎丸選手が頑張ってたラグビーは夫婦で見ました。これから日本代表のアジア最終予選も見るでしょう。女子
のフィギュアスケートは、宮原さんを応援しなきゃいけない時は一緒に見ようと思います。うちの奥さんは小塚くん支持派かな。スポーツは夫婦仲を良くするから、時々見なきゃいけませんね。本当は鉄道の世界とか、お寺詣りとか、そっちの世界にも入って欲しいんだけど、それは奥さんから距離をおかれていますね。
仲良し夫婦でも、趣味はまた別ですね。それはそういうことにしましょう。
見出しにも書きましたが、あと40年生きられたら、何ができるかなとふと思ったりしました。でも、たぶん今までと同じように、この40年とそれほど変わらない、自分らしい老後しかないような気がします。
ただ漫然と年をとっているだけではダメですね。自分にできることを努力しないと、どんどんダメおやじになってしまう。たぶんあと40年というのはムズカシイので、せいぜい今を努力していくしかありません。
イチョウの葉、メタセコイアの葉、みんな私たちで、いつかは落ちていきます。それをお月さんは黙ってみていて、少しずつ時間を刻んでいくだけですね。それは仕方のないことです。
だから、また同じ結論で、今、努力しなきゃ! でも、次の瞬間には忘れて、すぐ寝てしまうんです。ああ、困りました。
奥さんは、「そんなの当たり前だし、前から知っている」と言います。
そうかもしれないけれど、本人としてはまだ納得できていなくて、写真でだけは虚構のモノが写っていて、「実際は毛があるんじゃないの?」とのんきに構えてますが、たぶん写真の方が事実なのでしょう。
まあ、いいです。人が何と言おうと、ハゲてるかもしれないけれど、自分の目で見てはいないので、たぶんこのままずっと見ることはないと思うので、……合わせ鏡でもすれば見られるのでしょうか? まあ、そんな無理することはないので……正面から鏡で見て、立派なハゲチャビンなのだとわかるまでは、たぶんまた毛が生えてくるかも! と思うことにします。不毛の思案ですけどね。
それで、中学卒業から40年ほどが経過して、突然この秋に同窓会を開かれたそうです。クラスは11組まであって、500名ほどの卒業生がいたわけだから、何百人と集まれば良かったのだけれど、35名の同窓生が集まったそうです。それでもよくみんな集まったなあと感心したりします。
送ってもらった写真を見ていると、自分も参加したかった気持ちがフツフツと湧いてきますが、残念ながらその日は仕事だったので、集まったメンバーの顔を写真でながめるだけです。
以前にも書いたY先生がゲストでした。そのまわりに35人のオッチャン・オバチャンがポーズを取っています。ああ、この人はあの人だとすぐわかる人と、全く見たこともないようなオバチャンもいます。たくさん同期生がいたわけですから、知らない子がいても不思議ではないけれど、それにしてもみんな年食ったなあと思います。
まあ、私たちはもう写真を撮られる年代ではないのかもしれません。というか、それなりに自分の味は持っているのだろうけれど、集合写真になると、その味はふっ飛んでしまって、ただのふるぼけた年代になってしまいます。女性もそれなりだし、男性たちもそれなりで、集合写真はただの記録であって、その人の味を映せるモノではないようです。それぞれの味は、そばにいてじんわり感じられるモノだし、写真はもっと個に向き合わないと、それは写せないようです。
彼女たちや彼たちとことばを交わせたなら、その写真も違った味わいが出たかもしれないけれど、不参加だった私は、ただ大阪で年を重ねた仲間たちの今をチラッとみせてもらい、彼ら彼女らと自分の時間を重ね合わせるだけです。
そうでした。うちの奥さんも同級生でした。高校までは違うし、育ったところも違うけれど、年代としては同じだから、彼女とはいつも同じ時間を、時々は生活空間は違うときもあるけれど、ずっと同じように経過し、時々はお互いを振り返りながら、ともに手を取り合って過ごしてきたんでした。これは有り難いことですね。だから、ちかごろはあまりおしゃべりをしなくなってしまって、こりゃ、良くない傾向だなと思うのですが、私自身がカラッポで、何も自分から発するモノがありません。
どうしたらいいのかなあ。せっかくの同級生夫婦なのに、なんだかもったいないです。
まあ、それはおいおい努力します。何か話題がないとダメですね。私は近ごろ本は読まないし、映画も見ないし、野球だってすぐ飽きてしまってテレビを消してしまうし、なかなか共通の話題がないですね。
五郎丸選手が頑張ってたラグビーは夫婦で見ました。これから日本代表のアジア最終予選も見るでしょう。女子
のフィギュアスケートは、宮原さんを応援しなきゃいけない時は一緒に見ようと思います。うちの奥さんは小塚くん支持派かな。スポーツは夫婦仲を良くするから、時々見なきゃいけませんね。本当は鉄道の世界とか、お寺詣りとか、そっちの世界にも入って欲しいんだけど、それは奥さんから距離をおかれていますね。
仲良し夫婦でも、趣味はまた別ですね。それはそういうことにしましょう。
見出しにも書きましたが、あと40年生きられたら、何ができるかなとふと思ったりしました。でも、たぶん今までと同じように、この40年とそれほど変わらない、自分らしい老後しかないような気がします。
ただ漫然と年をとっているだけではダメですね。自分にできることを努力しないと、どんどんダメおやじになってしまう。たぶんあと40年というのはムズカシイので、せいぜい今を努力していくしかありません。
イチョウの葉、メタセコイアの葉、みんな私たちで、いつかは落ちていきます。それをお月さんは黙ってみていて、少しずつ時間を刻んでいくだけですね。それは仕方のないことです。
だから、また同じ結論で、今、努力しなきゃ! でも、次の瞬間には忘れて、すぐ寝てしまうんです。ああ、困りました。
ファンではないのです。あえて言うならハビエルフェルナンデス。小さな誤解っていっぱいあるのね。