
伊勢の内宮から少しだけ離れたところにある倉田山周辺、そこには伊勢神宮に奉納されたいろんなものを収蔵する施設があります。神宮徴古館・神宮美術館・神宮農業館の三つの施設が仲良く配置されています。文化的なものは徴古館、美術作品は美術館、農林水産業に関連するものは農業館というふうになっているようでした。
三館を見せてもらって七百円ということなので、共通券を購入して三つとも見せてもらいました。
妻は見たことがあったそうですが、私は初めてでした。三重県に住んで三十年にもなるし、物見高い私なのに、初めての拝観とは驚きです。
徴古館と美術館の印象は、大家の作品があったり、伊勢の文化を見せてもらったり、既視感があったような気がします。
さて、農業館です。皇室ゆかりの神宮ですから、上皇さまの田植えや収穫、上皇后さまの機織りなどの写真紹介、志摩地方での田植え祭り、志摩半島のアワビ加工などの海産物の収穫、さまざまに工夫されてきた農機具、皇室の方の農業館の扁額など、農業・水産業・林業に関わることなどの展示をザーッと見てきました。
それらすべては、伊勢志摩地方でできる産業でもありました。
日本は島国だから、たいていのところには海があり、人が住むフラットなところでは稲作が行われる。まわりはたいてい山があるので、そこで林業が行われ、杉やヒノキが山から切り出されていく。

水は、雨が降るから、どこでもそれぞれ工夫して水を引いて田に水を入れる。年に一回しかお米は取れないから、冬は稲作以外のことをする。たとえば、お蚕さんから絹をいただいて絹織物を作る。あるいは、おうちの中でわら細工などしてみたりする。伊勢志摩地方は温暖な気候なので、冬に家でこもりきりで作業というのは少ないかもしれません。外でなにがしかの作業はできたでしょう。
ここに海から出てくる太陽と、都から近いし、温暖なところとして伊勢志摩がお社の最適の地ということになり、アマテラスオオミカミさまは鎮座なされたということになっています。

そんなことは知ってましたけど、山の幸も海の幸も、この小さな半島にみんな揃っているし、それなりに平地はあるし、原始の森もあるし、一つの完成された世界として伊勢志摩があるのだなと改めて感じる展示でした。いろんな展示で昔からの神宮への信仰は地域の支えによってなされてきたようです。
県内には百いくつもの関連するお社があり、それらの頂点が内宮・外宮の伊勢神宮なのです。まさに信仰の土地ではあります。
古代の日本では、石油は要りませんでした。他の作物で油は取れた。金銀もそんなに欲しくはない。古代の日本で金銀の細工って、あったのだろうか。
鉄はよそで産出されるから、それを持ってきたらいい。クマもいない。海にはいろんなサカナたちや貝などがいた。ああ、必要なものはすべて伊勢志摩にはありました。
今の伊勢志摩は、産業は観光と漁業がメインで、他はそんなにない。国立公園はあるけれど、伊勢志摩の奥の方まで旅してみようという人は少ないのです。古代の人が欲しいものは何でもあったこの地域は、今はないものづくしです。
大陸や南の島から東をめざして来た古代の人々は、志摩半島で一応の目的を達成しました。
実は、まだまだ東北に未知の土地はあったと思われますが、山は深いし、大きな川はいくつもあるし、未知の民族もいるようだし、そこからさらに東に進出するにはもう少し時間がかかったのだと思われます。
日本海側は、独自の発展を遂げていて、海づたいに独特の文化が形成されていて、その日本海側世界と、太平洋側の西日本世界がいつごろ一つのなったのか、まだまだ不明の点はあるはずですが、伊勢志摩は太平洋側世界の一つの到達点であったようです。

私の中ではひとつの発見でした。ここで古代の日本は一応一区切りついていて、それからあとの東への進出は、もう少し時間がかかった。
やがて、東をめざす旅はつづけられ、北関東まで続いていきます。
でも、古代の日本は、そこから北への道はまだなかったのではないでしょうか。もう少しちゃんと証拠立ててみないといけないです。