夜明けのカラス(2007.8.24 金曜夜)
春先にトラクターが田畑を耕す。地面から飛び出す虫を捕まえようとサギがそのあとに付き従って、大騒ぎをしながらみんなで食べる様子は、まるで鳥たちの春の祭のようである。こんな虫を見つけたぞ。いやいや、こんな小さな生き物も出てくるなんて、とてもしあわせじゃ、と言ったか、言わなかったか……。
同じことをカラスがやるとどうなるのか。今日たまたま車から目撃したので書いておこう。
八月末、ちょうどお昼の時間帯で車の数は少なかった。田んぼの横を通る道は空いている。一瞬だけ空を見上げると電線にカラスが並んでいた。夕方でもないのに不思議な光景であり、貧弱な発想ながら、まるでヒッチコックの映画みたいだと思った。その間にも車は前に進み、早稲米の稲刈りをしている一画が視界に入って、カラスは意味もなく集まったのではないのだとようやく気づいたのだった。
彼らは苅られる田から飛び出す虫たちを待っていたのだ。その冷静なこと! 真夏の真昼の日ざしの中で無駄な動きをせずに、じっくりと待っているようだった。彼らの収穫祭は時間帯がお昼でディナーという感じではないのだけれど、彼らにしたらゴミ箱漁りのような邪道ではなくて、正統派の少し豪華なお食事というところなのだろう。昼の時間帯にしっかり頑張っているカラスたちだった。
夕方のカラスはというと、一日のいろいろの情報交換や自分の巣にもどってからの段取りなどを話題にしているようで、少しリラックスした雰囲気である。もうある程度お腹はふくれていて、あとはねぐらに戻って寝るばかりで、もうジタバタしても仕方がない、多少お腹が減っていても、明日までは我慢しようという割り切りがあるような気がするのだ。
ところが、朝のカラスはどうか。よその家族には言えない秘め事、家族の中のいさかい、近所の人の近況などを、電信柱のてっぺんや、気になる家の屋根をたどりながら、仲間同士話し合っている感じなのだ。彼らは人間の世界の隣にいて、人間どもを観察し、人間たちが出してしまう残飯やゴミの中から食べられそうなものを見つけ、お互いに朝の最初の獲物のことで鳴き交わしているようだ。この時の声は、とても人間には計り知れない事柄を話題にしているようで、ものすごく気になるのである。
私たちは、鳥ではないので、カラスのおしゃべりの内容もわからない。ただ、彼らがある意図を持って行動しているのは、何となく感じられるし、彼らの逆鱗にふれないように私たち人間は、大人しく穏やかに過ごさねばならないと思うのである。彼らは、いつも私たちの行く手で待っていてくれるのだから。
★ 全く関係ないけど、大阪の本屋で平積みされている「永遠のゼロ」を半信半疑で買って、珍しく早く手を付けて、珍しく早く読み終わって、戦闘シーンは一気に読んで、現代シーンはダラッと読んで、緩急が上手に使い分けられているなあと感心し、でもうさんくささを感じたのか、それとも早く売れば買い取り価格が高くなるという計算なのか、わりとすぐにブックオフへ持っていったことがありました。
あれは、自分でもなかなかいい判断だったと思っています。城山三郎さんが最後の特攻を書いた本は今でも持っていますが、百田さんはうさんくさいというのか、作り物っぽいというのか、単なる演出上手というのか、あんなのに乗せられたらダメだという判断があったのですね。自分でもそこは褒めてあげたいところです。
世の中には、上手な作家さんがいて、みんなホイホイと乗せられて読んでしまうんです。おもしろければそれでいいのかもしれないけれど、それだけではやはり私はイヤです。信じられないようなヤツの本は読みたくない。そこが私の偏屈さで、メジャーになれない私の弱さですね。売れればいいし、売れないようなのは小説ではない。それも1つの真理かも知れない。でも、売れなくてもいいから、いい作品を書ける人の方が貴重だと私は思います。
たとえば、それはガルシンとか、干刈あがたさんとかになるのかな。よくはわかりません。とにかく、自分は何を好きなのか、それさえあやふやなものなので、せいぜい楽しい作品を探していきます。そして、いつか私も素敵な作品が書けたらいいなと思いますけど、たぶん無理ですね。でも、いつか頑張ります。
春先にトラクターが田畑を耕す。地面から飛び出す虫を捕まえようとサギがそのあとに付き従って、大騒ぎをしながらみんなで食べる様子は、まるで鳥たちの春の祭のようである。こんな虫を見つけたぞ。いやいや、こんな小さな生き物も出てくるなんて、とてもしあわせじゃ、と言ったか、言わなかったか……。
同じことをカラスがやるとどうなるのか。今日たまたま車から目撃したので書いておこう。
八月末、ちょうどお昼の時間帯で車の数は少なかった。田んぼの横を通る道は空いている。一瞬だけ空を見上げると電線にカラスが並んでいた。夕方でもないのに不思議な光景であり、貧弱な発想ながら、まるでヒッチコックの映画みたいだと思った。その間にも車は前に進み、早稲米の稲刈りをしている一画が視界に入って、カラスは意味もなく集まったのではないのだとようやく気づいたのだった。
彼らは苅られる田から飛び出す虫たちを待っていたのだ。その冷静なこと! 真夏の真昼の日ざしの中で無駄な動きをせずに、じっくりと待っているようだった。彼らの収穫祭は時間帯がお昼でディナーという感じではないのだけれど、彼らにしたらゴミ箱漁りのような邪道ではなくて、正統派の少し豪華なお食事というところなのだろう。昼の時間帯にしっかり頑張っているカラスたちだった。
夕方のカラスはというと、一日のいろいろの情報交換や自分の巣にもどってからの段取りなどを話題にしているようで、少しリラックスした雰囲気である。もうある程度お腹はふくれていて、あとはねぐらに戻って寝るばかりで、もうジタバタしても仕方がない、多少お腹が減っていても、明日までは我慢しようという割り切りがあるような気がするのだ。
ところが、朝のカラスはどうか。よその家族には言えない秘め事、家族の中のいさかい、近所の人の近況などを、電信柱のてっぺんや、気になる家の屋根をたどりながら、仲間同士話し合っている感じなのだ。彼らは人間の世界の隣にいて、人間どもを観察し、人間たちが出してしまう残飯やゴミの中から食べられそうなものを見つけ、お互いに朝の最初の獲物のことで鳴き交わしているようだ。この時の声は、とても人間には計り知れない事柄を話題にしているようで、ものすごく気になるのである。
私たちは、鳥ではないので、カラスのおしゃべりの内容もわからない。ただ、彼らがある意図を持って行動しているのは、何となく感じられるし、彼らの逆鱗にふれないように私たち人間は、大人しく穏やかに過ごさねばならないと思うのである。彼らは、いつも私たちの行く手で待っていてくれるのだから。
★ 全く関係ないけど、大阪の本屋で平積みされている「永遠のゼロ」を半信半疑で買って、珍しく早く手を付けて、珍しく早く読み終わって、戦闘シーンは一気に読んで、現代シーンはダラッと読んで、緩急が上手に使い分けられているなあと感心し、でもうさんくささを感じたのか、それとも早く売れば買い取り価格が高くなるという計算なのか、わりとすぐにブックオフへ持っていったことがありました。
あれは、自分でもなかなかいい判断だったと思っています。城山三郎さんが最後の特攻を書いた本は今でも持っていますが、百田さんはうさんくさいというのか、作り物っぽいというのか、単なる演出上手というのか、あんなのに乗せられたらダメだという判断があったのですね。自分でもそこは褒めてあげたいところです。
世の中には、上手な作家さんがいて、みんなホイホイと乗せられて読んでしまうんです。おもしろければそれでいいのかもしれないけれど、それだけではやはり私はイヤです。信じられないようなヤツの本は読みたくない。そこが私の偏屈さで、メジャーになれない私の弱さですね。売れればいいし、売れないようなのは小説ではない。それも1つの真理かも知れない。でも、売れなくてもいいから、いい作品を書ける人の方が貴重だと私は思います。
たとえば、それはガルシンとか、干刈あがたさんとかになるのかな。よくはわかりません。とにかく、自分は何を好きなのか、それさえあやふやなものなので、せいぜい楽しい作品を探していきます。そして、いつか私も素敵な作品が書けたらいいなと思いますけど、たぶん無理ですね。でも、いつか頑張ります。