甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

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指宿百景 その9 父はカゴシマに眠る

2015年07月01日 18時23分03秒 | あこがれ九州

 自分が一人前になったような気がしたのは、いつごろからだったろう。三十を過ぎて、家族を引き連れて実家に帰ってくるようになってからのことだと思う。そのころも(今も)相変わらずのチャランポランではあったのだか、父や母のことを一人前に心配できるような立場に、いつの間にかなっていったのである。

 だから、妻の実家へ帰るときも、それなりに何か貢献しようという気持ちを持ってそちらへ向かったものだ。けれども、いざそちらへ行ってみると、すぐにいつものダメ亭主となって、何もしないでボンヤリしてしまうことが多かった。もう昔っから、私は何の役にも立たない男だったのである。

 いやもう、何もしないでボンヤリというのは筋金入りだった。もう何十年もそのボンヤリキャラでやってきたのだから、それはそれなりにエライのかもしれない。と、自分のことを無理矢理褒めてみたけれど、やはり何もしないのはダメである。役立たずは罪だとしみじみ思う。だから、何かの役に立ちたいといつも思う。

 それで、実家に帰ったときの夜、小さな私の実家は、父の寝息や母のいびきが聞こえる家なので、母が大きないびきをしていてホッとして、父は静かに寝ているので、「まさかうちのお父さん、大丈夫かな」と、父の枕元までのぞきに行くことが何度もあった。


 父はいびきをかかない、静かに寝る人だった。だから、私が父のところへ行って耳を澄まして、クイッと歯を鳴らしたり、寝返りをうったり、静かな寝息が聞こえてきたら、何となくホッとしてふたたび自分も寝る。これが実家で寝かせてもらう時のよくあるパターンとなった。

 父は、息子に心配されなくても、ちゃんと自分のことはして、無駄なことはせずに早く寝て、朝は早くから起きて、仏壇に水やお茶を供えたりしていた。母が起きてきたら、一緒に公園に散歩に行き、規則正しい生活を送っていたのである。それなのに、息子の私は、何か心配なような気がしていたのである。おせっかいな心配で、そんなことよりも自分を律することをしなきゃいけないのに、生意気にも父のことをずっと心配して二十年ほどが過ぎた。

 そして、父は二年前になくなり、そのお骨をやっと父の故郷に帰してあげる時が来ていた。お墓は十年くらい前にはなくなってしまった。カゴシマ人の父母が、大阪で暮らすことが多いので、お墓の掃除などは親戚のものを頼らねばならなかった。親戚は自分たちにつながる人々のお墓ではあるので、ちゃんと掃除をしたり、花のお供えなどはしてくれていた。

 けれども、朝夕お墓のお世話をする指宿の人々の基準でいくと、ちゃんとお墓のお世話をしていない家ということになるのだろう。そういったことが耐えられなかった父母は、十年前に自分たちで立てた墓を処分し、かわりに神社の境内に作られたお墓のマンションを買い、そこに先祖のみなさんは入ってもらうことにしてしまった。その時に父はやがて自分もここに入るのだ、それは遠い未来ではなく、ある程度近い未来だと思って購入したのかもしれない。


 とはいうものの、それは今すぐ自分が入るところではないし、それまでは時折カゴシマヘ帰り、帰ったらお参りすることにして、普段は大阪のお位牌を拝む日々に徹していたのであった。

 そこへとうとう父が入る日がやってきた。私たち家族と、親戚のものが集まり、ささやかな儀式が執り行われ、おごそかに神主さんの進行で儀式は進み、父はお墓の下の引き出しの中に入れられて、私たちは安らかにお眠りくださいとお祈りをして、神社をあとにしたのだった。くもってはいたけれど、前日のような冷たい雨は降らなかった。

 そこに入ってしまうと、父がいよいよ私たちから離れてしまうようで、少しさびしい気はしたのだが、入ったところには父の両親、叔父、曾祖父などがいて、それなりににぎやかだろうし、父にしてみれば、そういうのもありかと、納得してもらえたのかと思う。

 かくして、私たちは指宿の家に戻って、親族一同でささやかにお食事をして、みんなで父を偲んだのであった(2015年の5月のことだったと思う)。



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