そんなにひねりのある比喩ではありません。わりとそのまんまの比喩です。それよりもあとのお言葉が大事だと私は思います。
18【たとえば( )を為(つく)るがごとし】……人の学問修養は……を築くようなものだ。 ★ 空欄に適当な漢字一字を答えてください。
今日、久しぶりの日曜は、たいしたことはしなかったけれど、いろいろとお話を聞いて回ったりしました。でも、たいしたことって何でしょうね。考えてみれば、日々たいしたことはしていないのです。
お仕事して、酔っぱらって、ガーガーいびきかいて寝るだけです。本もあまり読まないし、テレビも見ない。いつたいしたことをするというのでしょう。……そうですね。毎日がなんでもない日でした。それを「不思議の国のアリス」では、何でもない日乾杯! とかやってました。そういう居直りが大事ですね。いじけてても何にもならない。
ある講演会に参加して、そこで「ことばを多面的に見よう」「1つの物語が生まれるまでには、たくさんの年月がかかる時もあるんだよ」「私たち1人1人がビッグバンを経験しているのだ」というような内容でした。
それだけではわけがわかりませんね。でも、そういうことだそうです。たぶん、私は明日から、物語も何もない平板な、それでいて気ぜわしい日々を過ごすでしょうけど、何だか充実感がないんです。どうしてなのかなあ。いや、そういうものを求めていることがまちがいなのかもしれないですね。
そんな毎日ドラマチックに過ごしていたら、私みたいな弱い人間は1日にで胃に穴が空いちゃうでしょう。弱い人間なら弱いなりに、少しずつ積み重ねるしかないのです。……ああ、また屁理屈です。
ほんの少しの土を運んだとして、それを「ああ、これではダメだ。私は何もできていない。私の労働なんてしれている。だから、もうよそう。どうせムダだ。やめてしまおう」と思うことがあります。
でも、やめてしまったら、それ以上進まなくて、それで終わりです。やはり、何かをしようと思ったら、自分がやろうとしなくては何にもならない。すごく当たり前のことです。
先生はおっしゃいます。
「止めてしまうのは、他ならぬ自分が止めるのである(止むは吾が止むなり)。」
じゃあ、どうすればいいのでしょう。何かをしようとするのなら、自分がやるしかない。
先生はおっしゃいます。
「進むは吾が往くなり。」〈子罕〉
進むのも、退くのも、すべて自分が責任を負って生きているのです。つまらないと思うのも自分、まあ、いいやと思うのも自分なのです。
だったら、すべて自分のことと受け入れて、自分がコツコツ積み重ねるしかありません。そして、できるものは?
[答え]18・山 ……なあんだという答えでしょ。
★ 遠くにドライブに出かけるとき、たとえば1泊で山梨県に行くとか、和歌山まで日帰りで行くとか、九州に今から向かうとか、そういうとき、何でもないいつもの風景がものすごく頼りない、長ったらしい、まとまりのないものに見えることがあります。
何を言っているのかというと、何度も通っている伊勢自動車道の津インター、安濃SA、関ジャンクション、どれもこれも、まだこんなところを走っているのかよ、まだまだ先は長いなと思い、気が遠くなるのです。
和歌山まで行くとしたら、延々と高速に乗らなくてはならなくて、紀伊長島・尾鷲に着いたとしても、普段ならそこは遊びに行く、それで満足するはずの土地なのに、「ああ、こんなところでモタモタするわけにはいかない。私はまだまだ遠くに行かなきゃいけないのだ」と思うのです。
九州だって同じです。三重から九州に行くには、飛行機でない限り、必ず関西を通らなくてはならない。いつもなら大阪の町は、古本屋さんへ行ったり、変テコリンな街角歩きを楽しむ町なのに、気分1つで、ただの通過点になってしまって、心が閉ざされてしまいます。
私だけなのかもしれないけれど、遠くに行き先があると、その途中は、なんだかウツロになってしまう。それで、もういいやと思ってしまったら、すべての目標は閉ざされてしまうのです。旅なら、楽しいはずだから、とりあえず続けるでしょうが、時間をかけてやらねばならない仕事だったら、もういいやと思ってしまったら、すべてはストップしてしまいます。「止(や)むは吾(われ)が止むなり」になってしまいます。
だから、壮大な計画があるとき、少しずつ積み上げることに飽きないで、なるべく楽しいことを考えて、いい仲間と、ほがらかにやれたら、小さな山であろうとも、それなりに楽しいのだと思います。
小さな山でも、自分が作れたのなら、それはそれでしあわせじゃないですか!
そう思っても、何か「山」を作ろう、と思って行きたいなあ。
18【たとえば( )を為(つく)るがごとし】……人の学問修養は……を築くようなものだ。 ★ 空欄に適当な漢字一字を答えてください。
今日、久しぶりの日曜は、たいしたことはしなかったけれど、いろいろとお話を聞いて回ったりしました。でも、たいしたことって何でしょうね。考えてみれば、日々たいしたことはしていないのです。
お仕事して、酔っぱらって、ガーガーいびきかいて寝るだけです。本もあまり読まないし、テレビも見ない。いつたいしたことをするというのでしょう。……そうですね。毎日がなんでもない日でした。それを「不思議の国のアリス」では、何でもない日乾杯! とかやってました。そういう居直りが大事ですね。いじけてても何にもならない。
ある講演会に参加して、そこで「ことばを多面的に見よう」「1つの物語が生まれるまでには、たくさんの年月がかかる時もあるんだよ」「私たち1人1人がビッグバンを経験しているのだ」というような内容でした。
それだけではわけがわかりませんね。でも、そういうことだそうです。たぶん、私は明日から、物語も何もない平板な、それでいて気ぜわしい日々を過ごすでしょうけど、何だか充実感がないんです。どうしてなのかなあ。いや、そういうものを求めていることがまちがいなのかもしれないですね。
そんな毎日ドラマチックに過ごしていたら、私みたいな弱い人間は1日にで胃に穴が空いちゃうでしょう。弱い人間なら弱いなりに、少しずつ積み重ねるしかないのです。……ああ、また屁理屈です。
ほんの少しの土を運んだとして、それを「ああ、これではダメだ。私は何もできていない。私の労働なんてしれている。だから、もうよそう。どうせムダだ。やめてしまおう」と思うことがあります。
でも、やめてしまったら、それ以上進まなくて、それで終わりです。やはり、何かをしようと思ったら、自分がやろうとしなくては何にもならない。すごく当たり前のことです。
先生はおっしゃいます。
「止めてしまうのは、他ならぬ自分が止めるのである(止むは吾が止むなり)。」
じゃあ、どうすればいいのでしょう。何かをしようとするのなら、自分がやるしかない。
先生はおっしゃいます。
「進むは吾が往くなり。」〈子罕〉
進むのも、退くのも、すべて自分が責任を負って生きているのです。つまらないと思うのも自分、まあ、いいやと思うのも自分なのです。
だったら、すべて自分のことと受け入れて、自分がコツコツ積み重ねるしかありません。そして、できるものは?
[答え]18・山 ……なあんだという答えでしょ。
★ 遠くにドライブに出かけるとき、たとえば1泊で山梨県に行くとか、和歌山まで日帰りで行くとか、九州に今から向かうとか、そういうとき、何でもないいつもの風景がものすごく頼りない、長ったらしい、まとまりのないものに見えることがあります。
何を言っているのかというと、何度も通っている伊勢自動車道の津インター、安濃SA、関ジャンクション、どれもこれも、まだこんなところを走っているのかよ、まだまだ先は長いなと思い、気が遠くなるのです。
和歌山まで行くとしたら、延々と高速に乗らなくてはならなくて、紀伊長島・尾鷲に着いたとしても、普段ならそこは遊びに行く、それで満足するはずの土地なのに、「ああ、こんなところでモタモタするわけにはいかない。私はまだまだ遠くに行かなきゃいけないのだ」と思うのです。
九州だって同じです。三重から九州に行くには、飛行機でない限り、必ず関西を通らなくてはならない。いつもなら大阪の町は、古本屋さんへ行ったり、変テコリンな街角歩きを楽しむ町なのに、気分1つで、ただの通過点になってしまって、心が閉ざされてしまいます。
私だけなのかもしれないけれど、遠くに行き先があると、その途中は、なんだかウツロになってしまう。それで、もういいやと思ってしまったら、すべての目標は閉ざされてしまうのです。旅なら、楽しいはずだから、とりあえず続けるでしょうが、時間をかけてやらねばならない仕事だったら、もういいやと思ってしまったら、すべてはストップしてしまいます。「止(や)むは吾(われ)が止むなり」になってしまいます。
だから、壮大な計画があるとき、少しずつ積み上げることに飽きないで、なるべく楽しいことを考えて、いい仲間と、ほがらかにやれたら、小さな山であろうとも、それなりに楽しいのだと思います。
小さな山でも、自分が作れたのなら、それはそれでしあわせじゃないですか!
そう思っても、何か「山」を作ろう、と思って行きたいなあ。