◇ 次の空欄に適当な言葉を選び、昔の人の言葉を完成しなさい。
19 汝(なれ)やしる都は野辺(のべ)の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見ても落つる( )……飯尾(いのお)彦六(ひころく)左衛門尉(さえもんのじょう)
訳 あなたは知っているだろうか、都では夕暮れのヒバリが空を上がるのを見ても自然に○○○が落ちてしまうことを。
20 ( )忘るべからず……世阿弥(ぜあみ)
意味 最○の、謙虚で緊張した気持ちを保持しよう。
21 人間( )年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり……織田信長
意味 長短はあるが、だれも平等に死ぬ。どうせはかない人生なら、どんなことにも当たってくだけろでやっていこう。
22 心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば( )もまた涼し……快川国師(かいせんこくし)
意味 強い意志の力さあればどんなことでも耐えることができる。
23 願わくば我に七( )八苦(はっく)を与え給え……山中鹿之介(やまなかしかのすけ)
意味 どんな苦しみも目的を達成できるなら我慢する。
[語群] ア・水 イ・なみだは ウ・初心 エ・八十
オ・五十 カ・火 キ・難 ク・慢心(まんしん)
[ヒント]
19・飯尾彦六左衛門尉という人が応仁の乱を嘆く。鳥は、天の思いを告げに来る、というのは人の思い上りです。ちゃんと、自己批判をしなくては! それができなきゃ、ただのペシミストです。
20・室町前期の能役者・世阿弥の《花鏡》にある言葉。これぞ芸人魂!
21・桶狭間(おけはざま)の合戦を前に織田信長は、この幸若舞(こうわかまい)を舞ったといいます。演目はあの平家の悲劇のヒーロー《敦盛》。彼は二十二年後の天正十年(一五八二)六月二日本能寺の変に遭い、死の直前にもこの舞いをしたとか。ちょっとできすぎたお話という気もします。
22・唐末期の詩人・杜荀鶴の言葉。日本では甲州[山梨県]の快川国師が使って有名です。信長は武田信玄の息子の勝頼を恵林寺(えりんじ)に追いつめ、そこにある人も寺も焼き尽くすのでした。
23・山中鹿之介の願いはただ一つ。「毛利(もうり)」に滅ぼされた主家(しゅか)「尼子(あまこ)」の再興。そのために秀吉の中国地方征伐に参加をします。そして、目的が達成されるためにあらゆる苦しみをくださいと言ったとかいうことでした。鹿之介さんはまるでキリストさまのような人だったんですね。
鹿之介さんのことばを、父はたまに何かの場面で芝居がかって言いました。父の過去には、そういうものに触れた時代があったんですね。あまり詳しくは語ってくれなかったけれど、父のセリフが断片的に小さい頃の私には残っていて、中学になって少し歴史のお勉強もして、秀吉さんの中国地方への遠征に鹿之介さんたちが付いてきたというのも、少しだけ知りました。
でも、尼子家といい、鹿之介さんといい、中国地方・山陽・山陰、私はあこがれていたのに、行ったことはありませんでした。電車が走る時代なのに、岡山も、倉敷も、津山も、新見市も、鳥取も、島根も、広島・山口も、全部行ったことがなかった。
姫路城だけは中学生で行ったことはあったけれど、あとは全く行っていませんでした。
今も、中国地方には何だかあこがれはありますね。文化が転がっているというのか、いろんな人生があるというのか、人々が交錯して、いろんな物語があっただろうし、今もあるような気がします。人が行き来している感じがありますね。
三重県は、人が通過はしているかもしれないけれど、今はみんな素通りな感じです。あまりドラマはない感じです。むしろ人々が元気をなくして、しなびれて、気持ちも滅入っているとき、三重県に人々は来るような感じです。
だから、来年の5月末も、各国首脳は雨の中、何だかパッとしない気持ちで、無理した笑い顔を作りながら、何か話し合いをするんでしょうか。静かだろうけど、地震とか、大雨とか、自然災害がこわい感じです。ぜひ無事に何ともなく来て、何ともなく帰ってもらいたいです。
というわけで、中国地方への個人的なあこがれでした。あこがれてはいるけれど、今もあまり行くことはありません。本当は、ものすごくいろいろ好きなモノ・好きな人がいるはずなんですけど、どういうわけか行ってないです。
何年前かに、18キップで柳田国男さんのふるさとを訪れたくらいかな……。
[答え]……19・イ 20・ウ 21・オ 22・カ 23・キ
19 汝(なれ)やしる都は野辺(のべ)の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見ても落つる( )……飯尾(いのお)彦六(ひころく)左衛門尉(さえもんのじょう)
訳 あなたは知っているだろうか、都では夕暮れのヒバリが空を上がるのを見ても自然に○○○が落ちてしまうことを。
20 ( )忘るべからず……世阿弥(ぜあみ)
意味 最○の、謙虚で緊張した気持ちを保持しよう。
21 人間( )年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり……織田信長
意味 長短はあるが、だれも平等に死ぬ。どうせはかない人生なら、どんなことにも当たってくだけろでやっていこう。
22 心頭滅却(しんとうめっきゃく)すれば( )もまた涼し……快川国師(かいせんこくし)
意味 強い意志の力さあればどんなことでも耐えることができる。
23 願わくば我に七( )八苦(はっく)を与え給え……山中鹿之介(やまなかしかのすけ)
意味 どんな苦しみも目的を達成できるなら我慢する。
[語群] ア・水 イ・なみだは ウ・初心 エ・八十
オ・五十 カ・火 キ・難 ク・慢心(まんしん)
[ヒント]
19・飯尾彦六左衛門尉という人が応仁の乱を嘆く。鳥は、天の思いを告げに来る、というのは人の思い上りです。ちゃんと、自己批判をしなくては! それができなきゃ、ただのペシミストです。
20・室町前期の能役者・世阿弥の《花鏡》にある言葉。これぞ芸人魂!
21・桶狭間(おけはざま)の合戦を前に織田信長は、この幸若舞(こうわかまい)を舞ったといいます。演目はあの平家の悲劇のヒーロー《敦盛》。彼は二十二年後の天正十年(一五八二)六月二日本能寺の変に遭い、死の直前にもこの舞いをしたとか。ちょっとできすぎたお話という気もします。
22・唐末期の詩人・杜荀鶴の言葉。日本では甲州[山梨県]の快川国師が使って有名です。信長は武田信玄の息子の勝頼を恵林寺(えりんじ)に追いつめ、そこにある人も寺も焼き尽くすのでした。
23・山中鹿之介の願いはただ一つ。「毛利(もうり)」に滅ぼされた主家(しゅか)「尼子(あまこ)」の再興。そのために秀吉の中国地方征伐に参加をします。そして、目的が達成されるためにあらゆる苦しみをくださいと言ったとかいうことでした。鹿之介さんはまるでキリストさまのような人だったんですね。
鹿之介さんのことばを、父はたまに何かの場面で芝居がかって言いました。父の過去には、そういうものに触れた時代があったんですね。あまり詳しくは語ってくれなかったけれど、父のセリフが断片的に小さい頃の私には残っていて、中学になって少し歴史のお勉強もして、秀吉さんの中国地方への遠征に鹿之介さんたちが付いてきたというのも、少しだけ知りました。
でも、尼子家といい、鹿之介さんといい、中国地方・山陽・山陰、私はあこがれていたのに、行ったことはありませんでした。電車が走る時代なのに、岡山も、倉敷も、津山も、新見市も、鳥取も、島根も、広島・山口も、全部行ったことがなかった。
姫路城だけは中学生で行ったことはあったけれど、あとは全く行っていませんでした。
今も、中国地方には何だかあこがれはありますね。文化が転がっているというのか、いろんな人生があるというのか、人々が交錯して、いろんな物語があっただろうし、今もあるような気がします。人が行き来している感じがありますね。
三重県は、人が通過はしているかもしれないけれど、今はみんな素通りな感じです。あまりドラマはない感じです。むしろ人々が元気をなくして、しなびれて、気持ちも滅入っているとき、三重県に人々は来るような感じです。
だから、来年の5月末も、各国首脳は雨の中、何だかパッとしない気持ちで、無理した笑い顔を作りながら、何か話し合いをするんでしょうか。静かだろうけど、地震とか、大雨とか、自然災害がこわい感じです。ぜひ無事に何ともなく来て、何ともなく帰ってもらいたいです。
というわけで、中国地方への個人的なあこがれでした。あこがれてはいるけれど、今もあまり行くことはありません。本当は、ものすごくいろいろ好きなモノ・好きな人がいるはずなんですけど、どういうわけか行ってないです。
何年前かに、18キップで柳田国男さんのふるさとを訪れたくらいかな……。
[答え]……19・イ 20・ウ 21・オ 22・カ 23・キ