新聞でも取り上げられてたので、あまり気は進みませんでしたけど、NHK-BSの「アナザー・ストーリー」という番組を昨日、一時間も見てしまいました。
テレビである人物を取り上げるということは、関係者の人に取材し、その言葉を編集し、いくつかのドラマを仕立てなくてはならなくて、向田さんの場合は、好きな人がいたというところを掘り起こそうとしていた。相手の人はカメラマンだったそうで、向田さんのポートレートを撮ってたりしたみたいでした。
だから、妙に色っぽい(俗っぽい表現でした)、とてもきれいなモノクロの肖像写真なんだなと思わされる写真がいくつかありました。その人には奥さんがいて、だから、向田さんはその人とはずっと結ばれないところで生きていかなくてはならなかった。
その葛藤が、向田さんを刺激して、もっともっといろいろな作品が生み出されたかもしれないのに、突然の飛行機事故で彼女はなくなってしまうのでした。
あんまり訳知りで書きたくないんです。何しろ私はほとんど知らないし、そんなにたくさん読んだわけではなかった。
左側の対談集、これは私が買いました。でも、1991年の5月に、電車の待ち時間か何かで買った本のようです。対談集ならホイホイ読めるだろうという、私らしい理屈です。ホイホイ読むことに何の意味もないのに、何となく向田さんのお話されてるのを聞こうとしたみたいでした。ドラマとか、脚本は苦手なんだけど、対談集ならOKなんてね。
まあ、対談集なら、うちの奥さんも買わないだろうし、彼女も気が向いたら読むかもしれないという、みみっちい魂胆もあったと思います。
右側は、うちの奥さんの向田邦子さんの本の中で一番古いもので、彼女が東京でお仕事している時、その最初のあたりで買った本のようでした。1983年に買ったのかもしれません。文庫の初版だし、ちょうど亡くなって2年目にあたるし、「父の詫び状」「あ・うん」と出て、3冊目がこの「無名仮名人名簿」というエッセイ集だったんですね。新潮文庫はもっと古くから向田さんの本を出してたのかな。調べないと分からないですね。
昨日、まずびっくりしたのが、向田さんが亡くなった年でした。1981年の8月22日だったそうです。
私と当時の彼女は、その2日後に上高地に夜行で行って、その日の深夜に帰るという弾丸旅行を企画していて、実際にフラフラになりながら、人生初の上高地に感動してたんですから、全く台湾での飛行機事故、知ってたかもしれないけど、ほとんど記憶になかったと思います。
けれども、彼女は、すでにドラマで向田さんは注目していたそうです。1979年に、トルコの軍楽隊の音楽を使った強烈なインパクトで「阿修羅のごとく」というドラマがあったそうです。監督は、当時はまだNHKにお勤めだった和田勉さんでした。
私は、あまりドラマを見る人ではなかったので、向田さんのドラマというのも、全く知らないままで、亡くなった時にも、よく知らない人だったと思われます。
90年代ごろから少しずつ、向田さんの作品を読み進めていったんでしょうか。そうすると、小学校の高学年の頃には鹿児島で過ごされたそうで、そのころの思い出を書いておられるエッセイだって読ませてもらいました。
カゴシマのお話だったら、たいてい飛びつく私は、嬉しかったし、向田さんがカゴシマでの日々をとても大事にしておられるのもうれしかった。そして、向田さんのいろんな資料が、かごしま近代文学館というところに収蔵されていると聞くと、何ともありがたい思いがしたものでした。
向田さんは、もっと生きられたのかもしれないのです。でも、事故に遭われてしまった。そして、スッとこの世から消えてしまったけれど、私たちが向田さんを求める情熱はどんどん大きくなるし、残されたものを丁寧に探す作業をみんながもう40年近くしてきたわけです。
そして、今さらながら悔やまれるし、どのようにして向田さんと出会ったのか、改めて問われてしまいます。
うっかり者の私は、彼女と上高地に行くなんていう、浮かれた気分でいたから、ニュースも何も知らなくて、その彼女と結婚して、彼女がこんな本を読んでたんだと知るようになってからやっと、向田さんに出会えたんでした。ああ、うっかり者! でも、出会えたし、今もその出会いを大事にしようという気持ちはあるから、これからも読んでいこうと思います。