朔太郎の『青猫』というのを借りてきました。ゴールデンウイークですから、家に閉じこもりきりですから、変なことをしたかった。
朔太郎さんは、ほんの少し見ただけで、これはなんとも言えない詩だなと実感できるし、今も生きている作品という気がします。
タイトルの「青猫」、たったの四行だから、書き写してみます。
青猫
この美しい都会を愛するのはよいことだ
この美しい都会の建築を愛するのはよいことだ
すべてやさしい女性をもとめるために
すべての高貴な生活をもとめるために
この絶妙の分からん加減。なかなかいいですね。青猫とは、自分なのか、誰か特定の人なのか、それともただのネコなのか。
そもそもネコが青いって、変じゃない。変だ。やはり、都会を愛して、建物の込み具合も好きで、きれいな女の人が好きで、ハイソサイエティに憧れている。
ということは、今は貧乏で、お金がなくて、女の子もいなくて、青ざめてて、都会の中で孤独で、どこにも取りつく島がなくて、ポツンと都会で暮らしている、そんな誰かが浮かび上がるじゃないですか。
それをタイトルに使うなんて、それだけでもいいセンスだ! 褒めてあげたい。1923年の1月、37歳の朔太郎さんの第二詩集です。
あともう一つ、啄木さんの詩集『あこがれ』も借りてきたんですけど、これはひどかった。短歌にしたら、もっとひねくれてて、素直じゃなくて、うぬぼれてて、しかも世間から相手にされてなくて、少しだけいじけてて、貧乏だけど、あまり気にしてなくて、みんなからお金を借りまくってる、妻子はいるのに、あちらこちらで浮気もしてて、とんでもない啄木君のかわいらしさが伝わるのに、詩は、これで金儲けしようと考えてたのか、「さあ、すごいの書いたよ。ねっ、お金ちょうだい。すごいでしょ。本を買わない?」という魂胆が見えて、2つか3つ広げたら、ああ、これは要らないですとすぐに言えそうな感じです。
有名なカニをテーマにした詩がありました。
蟹に
潮満ちくれば穴に入り、
潮落ちゆけば這(は)ひいでて、
ひねもす横にあゆむなる
東の海の砂浜の
かしこき蟹よ、今ここを
運命(さだめ)の浪にさらわれて
心の龕(ずし)の燈明(とうみょう)の
汝(なれ)が眼よりもささやかに
滅(き)えみ明るみすなる子の、
行方も知らに、草臥(くたび)れて
たどりゆくとは、知るや、知らずや。
1907年の21歳の時の作品だそうです。そりゃ、キャリアも違うし、啄木君は余裕はありませんね。彼は、あと5年しか生きられなかったんだから。
38のベテランと、21の若造では、全く話にならない気がします。
でも、彼は短歌という世界を見つけられた。詩では出せない、余計なものをそぎ落とした一瞬をドラマにすることができた。これは、それをさせてくれた友だちがいたからです。
友だちも、このカニの詩はつまらないよなと思ったんでしょう。それを上手に彼を傷つけないで、短歌に進ませてあげた人がいたと思います。
彼だけにしてたら、つまらない小説と詩を書いて、それで目が出なくて終わってたかもしれないのに、やはり持つべきは友だと思うな。