佐佐木信綱さん作詞の『夏は来ぬ』は1896年に発表されたそうです。百年以上前のことです。佐佐木さんは和歌の創作・研究に功績を残した歌人。その息子さんは佐佐木幸綱さんで、現在も活躍中で、三重県に来ていただいたり、俵万智さんの先生だったりした人です。この幸綱さんのおじいさん、信綱さんのお父さんの佐佐木弘綱さんも短歌・古典文学の研究などで活躍されたということでした。
「佐々木……綱」つながりでいくと、源平の戦いの折、宇治川の先陣争いで名を上げる佐々木四郎高綱さんを思い出しますが、きっとつながりがあるのでしょうね。あれから佐々木家は滋賀県や三重県に移り住み、大名になったり、研究者になったりしたのかもしれないです。
「ささき」の表記は、佐々木だったらしいのですが、中国に行ったときに通じなかったそうで、佐佐木に換えたとか聞いたような気がしますが、まちがっているかもしれません。
オッサンの私には少しだけなじんでいる曲の『夏は来ぬ』の一番はというと、
卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
というものでした。夏にはほど遠い春の初めだけど、最近チラッと読んだ本から抜き書きします。
父の書斎
父の書斎をと問われたにつけて、古い思い出ではあるが、懐かしい父のことであり、また自分が述べておかねば知っておる人がないのであるから、少し書き記してみたい。ただ書斎を離れて、家とか父の伝記の一部分とかいうことになるかとも思う。
父は明治の初年に、伊勢国鈴鹿郡石薬師村に世を終わるつもりで、家を新築した。
「和歌の浦に我だに一人のこらずば朽ち果てなまし玉拾ふ舟」
と詠んだように、歌の道のために尽くすべく、故郷で静かに世を終わる考えであったという。自分はその家に生まれたのであるが、幼時の記憶を思い起こすと、東海道の往来に面したかなりの家で、くぐり戸を明けて入ると土間、その右の玄関の部屋には、勿来(なこそ)の関の八幡太郎が馬上の絵と屋代弘賢の書とを貼った大きな衝立(ついたて)があり、左へ二、三の部屋を通ると、庭に向かった奥の八畳が父の書斎であった。書斎には数個の本箱と大きな机とがあった。その机の側には、いつも本がちらばっていた。
信綱さんのお父さんは、和歌の道に私が取り組んで何も残らないとしても、それはそれでかまわない。けれども、こうと決めたのだから、和歌の道で何か大切なものを見つけていきたいのだ、という意気込みでおられたのでしょう。ご子孫が和歌の道で頑張っておられるので、弘綱さんの意志はずっと続いているのだからスゴイです。
父は早く、類題千船集を三篇まで編し、明治になってからも、明治開化集や千代田集を選んだりしたので、全国から集まってくる撰集の資料が、大きい箱に入っていつも床の間に置いてあった。その座敷の障子には、紫と赤とのガラスが真中の三こまばかりにはめてあった。そしてその光がいつもちらかった本の上に彩(いろどり)美しく映えていたのが、今も自分の目に残っている。(一昨年大和宇陀郡の旧家を訪うたおり、古い部屋に色ガラスの入った障子があって、懐かしく思うたことであった。)
床の間の詠草の箱の傍らに、黒塗りのオルゴールの箱の置いてあったことも覚えている。父は、古い日本の学問をした歌人ではあるが、二つの性格を持っていて、一方に守旧、一方に進取、一方に厳格、一方に磊落(らいらく)の方面があった。それで、オルゴールの音を喜んだり、五歳の自分の宮詣りに四日市で買った洋服を着せたりするような新しい方面の趣味もあった。
庭から少し行ったところに幾株かの竹群があり、その傍らに土蔵があって、二階も下も本箱でいっぱいであった。父は日に幾度となく書斎から蔵へ行って、本を出したり入れたりしていた。幼い自分は、蔵の二階から下りて来る父を下で待っていて、一冊二冊の本を抱えて書斎へ携え帰ることを、喜ばしく思ったことであった。
この石薬師の家は、後に東京に永住すると決まったとき売り払ったので、近村なる井田川村の藤田氏が移して建てられ、今も屋根の四目の紋瓦までもとのままに井田川村にある。かつて石薬師に行ったついでに藤田氏を訪い、父の書斎であった部屋に座って、亡き父を偲んだことであった。(この藤田氏の女が亀山の服部家に嫁ぎ、その子が今東大の蒙古語の権威なる服部四郎氏である。)
土蔵は旧宅のあとに残っていて、村役場のものになっていたが、自分の還暦の祝の時に修理し、位置をも変えて、その前に閲覧室一棟を新築し、石薬師文庫と名づけて村に寄付し、村役場の管理のもとに、若い人たちの読む本と、伊勢の先賢の著書のたぐいが備えてある。
私は、一度だけ佐佐木信綱記念館に、短歌の会で行ったことはありますが、ちゃんと信綱さんの生家を見学してきませんでした。私がここを訪ねたのも随分昔のことになりました。
今度は、ここをしっかり見るという目的で行かなきゃだめですね。何かのついでに行くのも、ついでに見た発見があるかもしれないけれど、これを見に行くと思っていくと、気合いがちがいますからね。今度東海道を歩くことを目的に行ってみます。つづきは明日書きます。
「佐々木……綱」つながりでいくと、源平の戦いの折、宇治川の先陣争いで名を上げる佐々木四郎高綱さんを思い出しますが、きっとつながりがあるのでしょうね。あれから佐々木家は滋賀県や三重県に移り住み、大名になったり、研究者になったりしたのかもしれないです。
「ささき」の表記は、佐々木だったらしいのですが、中国に行ったときに通じなかったそうで、佐佐木に換えたとか聞いたような気がしますが、まちがっているかもしれません。
オッサンの私には少しだけなじんでいる曲の『夏は来ぬ』の一番はというと、
卯の花の 匂う垣根に 時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
というものでした。夏にはほど遠い春の初めだけど、最近チラッと読んだ本から抜き書きします。
父の書斎
父の書斎をと問われたにつけて、古い思い出ではあるが、懐かしい父のことであり、また自分が述べておかねば知っておる人がないのであるから、少し書き記してみたい。ただ書斎を離れて、家とか父の伝記の一部分とかいうことになるかとも思う。
父は明治の初年に、伊勢国鈴鹿郡石薬師村に世を終わるつもりで、家を新築した。
「和歌の浦に我だに一人のこらずば朽ち果てなまし玉拾ふ舟」
と詠んだように、歌の道のために尽くすべく、故郷で静かに世を終わる考えであったという。自分はその家に生まれたのであるが、幼時の記憶を思い起こすと、東海道の往来に面したかなりの家で、くぐり戸を明けて入ると土間、その右の玄関の部屋には、勿来(なこそ)の関の八幡太郎が馬上の絵と屋代弘賢の書とを貼った大きな衝立(ついたて)があり、左へ二、三の部屋を通ると、庭に向かった奥の八畳が父の書斎であった。書斎には数個の本箱と大きな机とがあった。その机の側には、いつも本がちらばっていた。
信綱さんのお父さんは、和歌の道に私が取り組んで何も残らないとしても、それはそれでかまわない。けれども、こうと決めたのだから、和歌の道で何か大切なものを見つけていきたいのだ、という意気込みでおられたのでしょう。ご子孫が和歌の道で頑張っておられるので、弘綱さんの意志はずっと続いているのだからスゴイです。
父は早く、類題千船集を三篇まで編し、明治になってからも、明治開化集や千代田集を選んだりしたので、全国から集まってくる撰集の資料が、大きい箱に入っていつも床の間に置いてあった。その座敷の障子には、紫と赤とのガラスが真中の三こまばかりにはめてあった。そしてその光がいつもちらかった本の上に彩(いろどり)美しく映えていたのが、今も自分の目に残っている。(一昨年大和宇陀郡の旧家を訪うたおり、古い部屋に色ガラスの入った障子があって、懐かしく思うたことであった。)
床の間の詠草の箱の傍らに、黒塗りのオルゴールの箱の置いてあったことも覚えている。父は、古い日本の学問をした歌人ではあるが、二つの性格を持っていて、一方に守旧、一方に進取、一方に厳格、一方に磊落(らいらく)の方面があった。それで、オルゴールの音を喜んだり、五歳の自分の宮詣りに四日市で買った洋服を着せたりするような新しい方面の趣味もあった。
庭から少し行ったところに幾株かの竹群があり、その傍らに土蔵があって、二階も下も本箱でいっぱいであった。父は日に幾度となく書斎から蔵へ行って、本を出したり入れたりしていた。幼い自分は、蔵の二階から下りて来る父を下で待っていて、一冊二冊の本を抱えて書斎へ携え帰ることを、喜ばしく思ったことであった。
この石薬師の家は、後に東京に永住すると決まったとき売り払ったので、近村なる井田川村の藤田氏が移して建てられ、今も屋根の四目の紋瓦までもとのままに井田川村にある。かつて石薬師に行ったついでに藤田氏を訪い、父の書斎であった部屋に座って、亡き父を偲んだことであった。(この藤田氏の女が亀山の服部家に嫁ぎ、その子が今東大の蒙古語の権威なる服部四郎氏である。)
土蔵は旧宅のあとに残っていて、村役場のものになっていたが、自分の還暦の祝の時に修理し、位置をも変えて、その前に閲覧室一棟を新築し、石薬師文庫と名づけて村に寄付し、村役場の管理のもとに、若い人たちの読む本と、伊勢の先賢の著書のたぐいが備えてある。
私は、一度だけ佐佐木信綱記念館に、短歌の会で行ったことはありますが、ちゃんと信綱さんの生家を見学してきませんでした。私がここを訪ねたのも随分昔のことになりました。
今度は、ここをしっかり見るという目的で行かなきゃだめですね。何かのついでに行くのも、ついでに見た発見があるかもしれないけれど、これを見に行くと思っていくと、気合いがちがいますからね。今度東海道を歩くことを目的に行ってみます。つづきは明日書きます。