先日、「ブラタモリ」で親不知という難所で名所(?)を見せてもらいました。
電車で通ったのはすごく昔だから、その記憶はありません。ものすごく昔、大糸線に乗ろうと思って富山側から糸魚川をめざして、そこからの大糸線には時間があって、海岸とか、雁木の町とか、見たはずですが、証拠はないから、本当かどうかわかりません。
あの時は、大阪出発で、北陸まわりで旅していたようです。カメラも持たず、ただボンヤリと電車に乗ってたんですね。それができてたんだから、エライです。それこそ旅してたような気がします。今だったら、写真撮らなきゃという強迫観念でいつもカリカリしています。それも旅なのかなあ。
糸魚川の駅では、ディスカバージャパンの大きな駅のスタンプは押したはずですけど、その手帳はどこに行ったかなあ。何年か前に大きな火事があったと思うんですが、酒田といい、糸魚川といい、時々日本海側は火事に襲われる時がありました。風は強いでしょうね。
大糸線に乗ったのは夕方? 姫川に沿ってどんどん山の中に分け入るし、夕暮れてくるし、ものさびしい気持ちだったでしょうか。いや、夜になるのをワクワクして見てたんだろうか。どこかに泊まったのかどうか、わかりません。大糸線も直通で松本まで行くのではなくて、どこかで乗り換えてやっと松本だったでしょうか。
クルマでだったら、何年か前に通りました。でも、その一回だけという気がします。あまり通ったことはありません。東海北陸道で北上し、富山に出て、そこから北陸道に入り、親不知を高いところから走り抜け、たぶん、この下に海と海岸とがあるはずだけど、高みの見物というのか、実感なく通り過ぎました。
鉄道や道路が海から遠く離れた高いところを走るようになってから、どれくらいの歳月が経ったんでしょう。それはすごくありがたかったし、やっと普通に行き来できると、人々は安心したでしょうね。
今見てみたら、とても海岸沿いなんて、歩けるものではありませんでした。たしか、日本海側は少しずつ海が削れているところもあるみたいだから、昔はもう少し歩くところもあったでしょうか。今は、干潮の時があったとしても、歩けるのかどうか。それでも命がけでしょう。
石川県の友だちが、義経さんと弁慶さんたちが、安宅の関を必死の思いで抜けていったお話がありましたけど、その安宅の関は、今は海の中になってしまってるんだよというのを教えてくれたことがあります。今から千年近く前、まだ安宅の関は海のソバにあった。それが海岸浸食で海の中に消えただなんて! 長い歳月は、やがて日本列島を海に飲み込んでしまうのか、それこそ日本沈没か、というところですが、その時にはまた別の展開もあるでしょう。人間個人のスケールでは、関係の無いことです。
でも、海岸や砂浜は、ところによっては痩せてきたり、温暖化のせいで陸がなくなるのは、そんなに遠い未来ではありません。これは私の時間の中でも起こりうることでした。
軽石現象、火山の噴火、冬の台風、いろいろと自然は動いていくことでしょう。
それで、親不知という難所を抱えてしまった越後の上杉謙信、すぐれた武将だったと思われますが、北陸道に大軍を送り込むことは苦労したでしょうね。上洛したこともあったそうですから、夏には通過も可能だったのかもしれない。でも、冬は無理です。だから、冬はめっぽう強い謙信さんも動けない、そういうことがありました。
どうして親不知なのかというと、中国のことなんです。中国の軍というのは、いつ移動したんだろうとふと思ったんです。春秋戦国時代のいろんなエピソードがあっても、私のイメージはずっと冬の広大な、カラカラで寒い大陸での戦い、というイメージでした。
本当は、夏にも、秋にも戦いはあったはずです。寒さの身にしみる今、昔の英雄・凡雄のみなさんたちは、何を考えて兵を動かしていたのか、それが気になりました。
謙信さんは、冬は動けなかった。他の人たちはどうだったのかなあ。中国はいつ戦ってたのかどうか。そういうのも気になりました。
とにかく、私には親不知は無理というのは確実です。すぐに海に連れていかれるでしょう。そんなとこには行きたくありません。