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魏王の人を見る目 中歴67

2019年02月24日 16時24分07秒 | 中国の歴史とことば

 魏の恵王さん(BC400~319)は、魏の三代目の君主(在位:BC369~319)でした。

 魏という国は、初代が文侯、2代目が武侯で、その武侯さんの子どもとして恵王さんは生まれました。三代目のプリンスでした。

 とはいうものの、武侯さんの死後に、異母兄の公子・仲緩(ちゅうえん)さんと王位を争って、ようやく即位することができた。単純に母の力とか、父親の溺愛により王位を得たというわけではなかったそうです。権力闘争における勝利者でした。

 魏は大陸の中央に位置し、当時最大の勢力を誇っていましたが、周囲を強国に囲まれており、武侯さんの晩年には領土拡張には他国に攻め入るしかない状況にあって、絶え間のない戦火が国政に重くのし掛かりつつありました。

 魏にとって国を維持することは常に四方八方を侵略することであり、中国の西の端の秦、南の未開の地(?)楚、東の強国の斉などと比べるとしんどい状況にありました。これらの国は山や海が一方にはあるので、そちらの心配はしなくていいから、敵が攻めてくる方角は限られています。一方の魏はまわりがすべて敵で、いつ、どこから攻められるか分からない状況にありました。いつも疑心暗鬼を抱えていなくてはなりませんでした。


 自分が即位に到るまでに、北側の趙や東側の斉の介入を許したり、西側の秦・隣国の宋・韓などとも争いが絶えず、国力を伸張させることはおぼつかない状況でした。

 そんな時に、公族(親戚)でもある宰相・公叔痤(こうしゅくざ)さんが臨終の間際に自分の客の公孫鞅(こうそんおう)という人に関して、
 「私が亡くなった後に、食客の公孫鞅を宰相にしてください。必ずや魏を強大国にしてくれましょう。もし、これを採り入れてくださらない場合は、すぐにでも公孫鞅を殺害してください。もし他国が彼を登用してしまえば、魏にとって大いなる脅威となり、取り返しがつきませんから。」という遺言をしました。

 けれども、恵王さんは宰相の公叔痤さんがボケてるから、こんな事を言うのだと思ってしまい、公孫鞅さんを登用も誅殺もしませんでした。王のミスとしてはありがちなことです。

 魏王さんに失望した公孫鞅さんは秦にゆき、秦の孝公さんに見出されて宰相となり、秦の国政を大改革して秦を強国にしてしまいます。その功績により、公孫鞅さんは商の地を与えられ、「商鞅(しょうおう)」と呼ばれます。強国となった秦は何度も侵略して来て、魏は徐々に領土を削られてゆくことになります。


 まず1つ目のことばです。

77【市に(     )あり】…どんなにありえぬことでも大勢の人が言うと信用されてしまうことのたとえ。《韓非子・内儲説》 「75曾参(そうしん)人を殺す」と同じ意味です。
 空欄にあり得ない生き物の名前をどうぞ! 熊? 鯨? 狼? 龍? 麒麟?

 魏の龐恭(ほうぎょう)という人が、人質として趙の都・邯鄲(かんたん)に行くことになりました。人質と言っても牢屋に入れられるのではなくて、江戸時代の諸藩の江戸屋敷みたいなもので、とにかくそこにいることに意義がある感じなんでしょう。ということは龐恭(ほうぎょう)さんはそれなりに重要な存在なわけですね。

 彼は恵王さんに言いました。

 「私が人質として行く邯鄲の地ははるかに遠い土地です。けれども、風の便りやら、わけのわからないところから、私に関するいろいろな情報・うわさが王様に伝わると思います。

 趙という国に入り込んで、魏の国を侵略しようとしているとか、魏の国の攻略方法を次から次と提案しているとか、趙という国にいい子を見つけて、母国のことなど忘れているとか、あることないことが事実めかして伝えられることでしょう。

 さて王様、まるで市場に……がいますよと言われるのと同じです。

 王様は、私のことを信頼してくださいますので、即座に否定してくださると思います。

 でも、王様、人というのは不思議なものなんです。

 それはもう、市場に……が出るなんていうのはわかりきったウソなのです。ですけれども、三人がこれを言うとしたら、ウソがマコトに変わってしまうのでございます。どうぞ、ご注意くださいませ。」

 と語ったというエピソードでした。


 2つ目のことばです。

 紀元前341年、馬陵の戦いにおいて魏軍は田忌(でんき)・孫臏(そんぴん)率いる斉軍に敗れ、嫡子の上将軍の太子申が捕えられるという惨敗を喫します。

 それを好機と捉えたのが秦の商鞅さんです。翌年の紀元前340年に西から侵攻し、自分と親交があった総大将の公子卬(恵王の異母弟?)を欺き、これを捕虜として大勝したために、魏は都を安邑から、東方の大梁(現在の開封)に遷さなければならなくなります。これ以降、魏は梁とも呼ばれるようになり、梁の恵王という呼ばれ方もするようになります。

78【五十歩百歩】……どっちもどっち。《〇子・梁恵王》 
 この有名な言葉は、何という本の中のことばですか?

 『〇子』では梁の恵王として登場します。

 ある時、恵王さんは〇子さんを招いて言います。

 「私はこれほどまでに徳を施しているのに、どうして人材は私の元に集まらないのだろうか?」

 さあ、出ましたよ。わがままな王様の独善的な発言です。自分はいつも最善を尽くしているなんて平気で言うんですよ!

 さて、〇子さんは?

 戦場から百歩逃げ出した兵士を、五十歩逃げてしまった兵士が笑ったという例え話をします。

 恵王さんの徳、治政の有り難さなど、この程度のものだと言い切ってしまった。

 私が王様なら、激怒してこの目の前の男を殺すように言うかもしれない。バカにされたと判断したらです。
 
 でも恵王さんは謙虚で、「はあ、そういうものか。確かに私のやってきたことなんか、チッポケなものか」と納得したんでしょう。その点はなかなか見込みがあります。残虐な王様ではなかった。

 もちろん〇子さんも、「ここまで言っても大丈夫」と思いつつ発言しているので、お互いにそれなりの人たちなんでしょう。私みたいな凡人とは違います。


 失意の中にいた恵王さんは、溺愛した太子申の同母弟の公子赫を世子に定めたそうです。わりと切り替えのできる人だったんでしょう。

 そして「あの時に私が公叔痤の言葉を聴いて、公孫鞅とやらを処刑すればこんなことにならなんだのに…」と洩らして、商鞅さんを殺さなかったことを大いに悔いたということです。

 度重なる敗戦により、魏は衰え、韓と共に斉に服属することとなり、文侯以来守られてきた覇権を失う結果となります。恵王さんは紀元前319年に老衰のために82歳で逝去しました。


★ 答え 77・虎  78・孟子


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