私たち家族の熊野での生活は、この「阿田和(あたわ)」駅のそばでスタートします。
確かに、そうだったのです。和歌山まわりで大阪から新宮に出て、そこで一泊して、次の日の朝、こちらに鉄道で降りて、お引越し作業があって、とにかくここから始まった。
その駅に、奥さんと近くまで来たんですけど、彼女は駅に対してそんなに感慨はないのか、こちらに寄らず、私だけが駅のホームと上り方面の写真を撮りました。そんなに何度も利用したわけではないし、年に数回くらいしか利用しなかったはずですけど、ここに駅があるというのは、生活していく上で嫌でも意識しなくてはならなかったんです。
23時前には最後の特急がやって来て、「ああ、今日も1日が終わっていく」とか思ったし、もう寝なくちゃとか、1日のしめくくりの特急の駆け抜ける音でようやく寝ることができたんでした。
朝の始発はどうだったかな。それはあまり記憶がないですね。寝てたのかな。
うちの子が小学校に1年だけ通ったのも、この道沿いでした。ひとりで、登校団もなくて、よたよた歩いて行って、時にはあちらこちらに忘れ物をしたり、それを妻が拾いに行くと、レールの上に帽子が落ちていたり、上履き入れが道沿いにあったり、ハラハラドキドキの日々もありました。
少し海の方へ下りていくと、石ころの浜が広がっていて、北の方の山の連なりが見え、南側は大きな製紙工場とかすんでいる向こうになだらかな山が見えるんだったかな。
正面の海は、とてつもなくて、人間を寄せ付けなくて、大きくて静かに音を立てていましたっけ。時には怖いほどの音を立てる時もありましたけど、そんな時には絶対に近づかないし、音だけで町中に海を感じさせてくれてたんでした。
18キップで通る時もあるんですけど、途中下車はなかなかしてなくて、駅のまわりをフラフラするのは、ここを目的に来るときだけかな。
当時の知り合いと会うチャンスはなかなかないけれど、たぶん、私たちの生活はそこにありました。人との出会いもあったはずです。
今は、少し途絶えているけれど、いつか当時の人たちとの縁がつながるのかどうか、それは私たち次第なのかな。なかなか難しいけど、時々こうして旅することにします。
冬になったら、18キップで来ようと思います。