まつさかに住むようになって、もう20年以上経過しています。よくもまあ長く住んでいるなあと思います。
本当は、三重に住むのなら、津の駅の西側の丘陵地帯に住みたかったんです。でも、土地代もかなりだし、私の稼ぎではどうにもなりませんでした。
だったら、ほかのところがあるじゃないのと思いますが、夫婦2人ならそれも可能でしたが、子どもがいたので、小学校1年生の時に転校をさせてしまい、この子の人生に影響を与えてしまったと思ったので、できれば転校はさせたくなかった。
というわけで、まつさかに住むようになりました。
城跡から、ポカンとした街並みの見える、静かな、何にもない町でした。駅前はさびれているし、映画館は2つしかないし、ショッピングセンターはあるけれど、テカテカと明るさはあるけれど、欲しい物がなにもない、そういう町でした。
町に、大都会的なものを若い頃の私は求めていたんでしょう。CDやさん、本屋さん、文具店、どれも品揃えがイマイチだと思っていました。
そして今は、大阪・名古屋・神戸・京都などの都会に行っても、欲しい物がなくなってしまいました。だから、まつさかに住んでいても、都会に住んでいても、物欲の面ではどっちでもよくなりました。
そうだ、物ではないのだ! ということに今ごろになって気づきました。今では何か新しいものを手に入れても、特に感動はないし、少しうれしかったとしても、そんなによろこびも長続きしないのです。
そんなことより、人とのつながりだと思うのです。なのに、現実の私は、それさえおろそかにして、ションボリひとりみたいな感じです。いや、そういうことはないと思いたいけど、私は基本は独り善がりで、何でもこっそりひとりで決めて、それでやりきった顔をしているのです、きっと……。
物をため込むよりも、もっと今まで生きてきたあれこれを丁寧に見直すことが必要です。新しい物をとっかえひっかえしなくてもいいのだ。手元にある物で十分だし、日々の生活はむしろ古い物の方が落ち着くはずです。もう新しい物は何もいらない。(クルマは新しいのが欲しいかも……)
まあそれは、負け惜しみ的な要素もあります。あまり新しい物が買えないし、新しい物があればそれなりに気分は高揚するのはわかっているのです。でも、すべてがピカピカというわけにはいかないし、どれか1つ新しいものが、ごくたまに身につけられればいいわけだから、やはり基本は古い物に取り囲まれるだけでいいのです。
そして、まつさかに住んでいます。本来であれば、もっともっとこの町の、古くさい人情やしきたり、古い町そのものを味わって、いろんな人と関わらねばならない。
昨日、鶴瓶さんのテレビで出ていた松阪の人たちは、控えめな方と出しゃばりでお調子者で、あまりたいしたこともないことをゴネゴネ言う人との2種類に分かれるのだなと、今さらながら気づきました。
お調子者でゴネゴネ言う人たちもそれなりに生活面ではがんばっているんでしょう。でも、あまり関わりたくない人たちです。彼ら・彼女らは、自分のペースでガンガン行ってしまい、それで満足しているところがある。
そういう人たちより、この町で地道にコツコツ生きてきた人たち、そういう人をちゃんと見つけて、この人たちにあれこれお話を聞いて、私は穏やかに生きていきたいなと思いました。人に振り回されるのはイヤです。
だらしなく、グダグダいきたい。決して人に迷惑をかけない(つもりだけど、いっぱい人に迷惑をかけてるけど)、という気持ちで、この町にこれからも住んでいこうと思います。
残念なのは、人の思いがたくさん詰まったものが、どんどん取り壊されることです。古くて役に立たないようなものを再生して、みんながそこで昔の人々のくらしを振り返りつつ生きていくこと、そういうのができないかなあ。それが私の、現在の理想であり、これからのテーマなんです。
本当は、三重に住むのなら、津の駅の西側の丘陵地帯に住みたかったんです。でも、土地代もかなりだし、私の稼ぎではどうにもなりませんでした。
だったら、ほかのところがあるじゃないのと思いますが、夫婦2人ならそれも可能でしたが、子どもがいたので、小学校1年生の時に転校をさせてしまい、この子の人生に影響を与えてしまったと思ったので、できれば転校はさせたくなかった。
というわけで、まつさかに住むようになりました。
城跡から、ポカンとした街並みの見える、静かな、何にもない町でした。駅前はさびれているし、映画館は2つしかないし、ショッピングセンターはあるけれど、テカテカと明るさはあるけれど、欲しい物がなにもない、そういう町でした。
町に、大都会的なものを若い頃の私は求めていたんでしょう。CDやさん、本屋さん、文具店、どれも品揃えがイマイチだと思っていました。
そして今は、大阪・名古屋・神戸・京都などの都会に行っても、欲しい物がなくなってしまいました。だから、まつさかに住んでいても、都会に住んでいても、物欲の面ではどっちでもよくなりました。
そうだ、物ではないのだ! ということに今ごろになって気づきました。今では何か新しいものを手に入れても、特に感動はないし、少しうれしかったとしても、そんなによろこびも長続きしないのです。
そんなことより、人とのつながりだと思うのです。なのに、現実の私は、それさえおろそかにして、ションボリひとりみたいな感じです。いや、そういうことはないと思いたいけど、私は基本は独り善がりで、何でもこっそりひとりで決めて、それでやりきった顔をしているのです、きっと……。
物をため込むよりも、もっと今まで生きてきたあれこれを丁寧に見直すことが必要です。新しい物をとっかえひっかえしなくてもいいのだ。手元にある物で十分だし、日々の生活はむしろ古い物の方が落ち着くはずです。もう新しい物は何もいらない。(クルマは新しいのが欲しいかも……)
まあそれは、負け惜しみ的な要素もあります。あまり新しい物が買えないし、新しい物があればそれなりに気分は高揚するのはわかっているのです。でも、すべてがピカピカというわけにはいかないし、どれか1つ新しいものが、ごくたまに身につけられればいいわけだから、やはり基本は古い物に取り囲まれるだけでいいのです。
そして、まつさかに住んでいます。本来であれば、もっともっとこの町の、古くさい人情やしきたり、古い町そのものを味わって、いろんな人と関わらねばならない。
昨日、鶴瓶さんのテレビで出ていた松阪の人たちは、控えめな方と出しゃばりでお調子者で、あまりたいしたこともないことをゴネゴネ言う人との2種類に分かれるのだなと、今さらながら気づきました。
お調子者でゴネゴネ言う人たちもそれなりに生活面ではがんばっているんでしょう。でも、あまり関わりたくない人たちです。彼ら・彼女らは、自分のペースでガンガン行ってしまい、それで満足しているところがある。
そういう人たちより、この町で地道にコツコツ生きてきた人たち、そういう人をちゃんと見つけて、この人たちにあれこれお話を聞いて、私は穏やかに生きていきたいなと思いました。人に振り回されるのはイヤです。
だらしなく、グダグダいきたい。決して人に迷惑をかけない(つもりだけど、いっぱい人に迷惑をかけてるけど)、という気持ちで、この町にこれからも住んでいこうと思います。
残念なのは、人の思いがたくさん詰まったものが、どんどん取り壊されることです。古くて役に立たないようなものを再生して、みんながそこで昔の人々のくらしを振り返りつつ生きていくこと、そういうのができないかなあ。それが私の、現在の理想であり、これからのテーマなんです。
おっしゃるとおり、「家族に乾杯」もそうですが、面白い人、キャラの立っている人ばかり出てくるのがかえってつまらないですね。
テレビの性格上しかたのないことでしょうが、カットされた多くの人たちの中に共感できる人が含まれているのでしょうね~
すると、彼は松阪の南の多気町の人なので、ちゃんと「まっさか」と発音していた。それが気に入った! という感想を聞かせてくれました。
えっ、そこ? と昔は思いましたが、地元の人は「まつさか」と発音されるのがイヤというのか、違和感があるようでした。
そういうこだわりのある人たちは、あと何十年かしたらいなくなるし、若い人たちはわりと平気に「まつさか」と発音するんだろうなと思います。
どんどん記憶は消滅していきます。せいぜいコテコテの松阪弁とやらをならって、若い人たちにぶちかましてやらなきゃいけないんですけど、できていません。私はよそ者ですから……。中途半端な大阪弁しかしゃべれなくて……。