時代小説の作家世界の先輩、子母澤寛さんのことを司馬遼太郎さんはこんなふうに書いておられました。
両親の縁がうすく、生後ほどなく祖父十次郎、祖母スナにひきとられた。祖父十次郎は厚田村で角鉄(かどてつ)という旅籠屋を営んでいた。
「猫可愛がりというのでしょう」
子母澤間さんに近づきを得たのは昭和三十六、七年ごろで、当時、私は新選組のことを調べていた。
そして、どうしても子母澤寛さんの本をあれこれ使わせてもらわなくてはならなかったので、ご挨拶や許可などをもらいたかったんでしょう。その時にどういうきっかけなのか、こうおっしゃいます。
「私は長州人はきらいです。商人みたいで」
と、右の訪問のとき、藤沢のお宅の奥でいわれたことを憶えている。
私は、私自身の長州人への好悪とはべつに「商人みたいで」という語気に旧幕イデオロギーを感じておもしろく思えた。ただ、それは酷かもしれません、と無用のことをいった。
別に長州(山口県)の人がキライと言ったのではなくて、そういう気概を持っておりたいという幕府の御家人の気分を語られたんでしょうか。会津の人たちの薩摩嫌い、大阪人の東京嫌い(実はあこがれ?)、京都の人の大阪蔑視(仲間割れ?)、薩摩人の熊本嫌い(西郷さんが好き過ぎて、西郷さんを追い詰めることになった熊本の地が何となく許せない?)、それはもういろいろな意識する土地があるでしょう。
ご先祖様に幕府にゆかりのある人がいたら、当然、薩長は憎い気持ちがどこかにあったのかな。これらの土地がもう少し肝要なところであれば、別の形の日本の近代が生まれたのかもしれない。でも、明治政府の人たちはすべてを天皇のもとに作るという基準があったので、とりあえず幕府はゼロにしなきゃダメだったんですね。
司馬さんも功罪があるのはわかっているから、「それは酷かもしれません」というフォローをしてみたけれど、そんなのはわかっているのです。でも、そういう本当の根っこの気持ちを話してくださったら、「ありがたい先輩だな」と司馬さんも思ったでしょう。
子母澤さんの祖父梅谷十次郎(巻頭の人だから「うめや」なんだろうな)は徳川の御家人で、瓦解のあと彰義隊に加わり、敗れてからは榎本艦隊の北上に参加し、五稜郭で戦った。
そのあと、のがれて(石狩湾沿いの町の)厚田村に土着した。最初は土地の網元の用心棒などもしたらしい。いつ彫ったのか、背中一面に竜の刺青(ほりもの)があったという。その後、旅籠屋を営んだが、妓(おんな)なども置いていたし、漁場で喧嘩沙汰があると、調停を買って出た。刺青はそういう場合の役に立つように彫ったものかと思われる。
人生ですね。後輩の司馬さんに、自分のルーツを語ってあげる時に、お父さんのことはそれほど話題にならなくて(ご夫婦一緒でなくて、家族が離散したから、子母澤さんはオジイサンに育てられた過去があったんでした)、祖父のことを語り、江戸の終わり・明治の始まりを重ね合わせて語ってくれたわけですか。なかなかステキな先輩です。
そういう自分の家のルーツを聞かせるって、とりあえず相手を受け入れているし、聞く方も相手のところに飛び込んでる感じがしますね。
さあ、お話は新選組に行くのか? それとも厚田村の旅を語るのか? つづきは明日にしてみます!