今朝、4時過ぎに目が覚めました。子スズメはそんなに鳴いていません。私が起きてゴソゴソしても奥さんは起きないようで、それはよかった。半分起きているのかもしれないけど、とにかく寝ているように見えます。
彼女は昨日大変な一日で、でも大きな収穫のあった一日でもあったので、その疲れが出たのか、寝ている。ああ、どんどんしっかり休んでもらいたい。私がゴソゴソ起き出しても、見逃してもらいたい。また、すぐに起きちゃうんでしょうね。とにかく今、寝ながら考えたことを書きます。たぶん、つまらないことではありますが……。
愛って、いったい何なんだと思いました。若者の一部は、愛って、そりゃエッチなことだろ、なんて平気で言うヤツらがいます。まるでそれしか頭の中にないヤツらがいる。
それも愛の一部なのかもしれないけれど、それしか頭にないヤツらは、間違っているような気がするのです。まるで信仰は神への忠誠だと叫んでいる原理主義の人たちと同じのような気がします。
神様は決して忠誠なんか望んでおられないのに、人間の勝手な解釈で、自分の都合のいいように、他人を束縛するために神様を引き合いに出し、他人に迷惑をかける。これは愛でもないし、信仰でもありません。ただのわがままであり、神への冒涜です。おそらくそれを知りつつ方便でやっている。それを信仰だと信じ込まされている人たちは、信じ込まざるを得ないくらい苦しい立場にいる人たちなのかもしれない。でも、それは信仰ではなく、わがままであり、人を傷つけ、人を束縛したい、とんでもない権勢欲でしかない。
エッチなことを優先する人たちも、わがままな人であり、どこかで苦しみを味わってきた人たちなのかもしれないけど、それを他人に求めてはいけない。それは愛ではない。と、私は少しだけ言える年齢に達してきたようです。
愛って、記憶ではないか。と、昨日なんかは思うのでした。沖縄戦の終わった日であり、何十万の人びとが死にたくないのに、無理矢理に殺されてしまった日々、そこにはだれかのことを思い、だれかの平安を祈り、だれかを助けたいとみんなが必死になり、それでも死ななくてはならない状況があった。
今も、沖縄はそれが終わったのではなくて、少しだけソフトにはなったけれど、相変わらず負担を強いられ、だれかの平安を祈りたいのに、穏やかに祈ることができない状況が続いている。空にはいつも何かが飛んでおり、地上や海はいつも武器が散乱している。そんなものは置いて欲しくないのに、国のエライ人たちがそれを指示している。人びとは武器から解放されたいのに、日常的に一緒にさせられている。
それでも、人びとはたくさんの過去の人びとの思いに触れ、何とかしたいと考え、ずっとそれを変えようとしている。これは愛の発展形のような気がするのです。たくさんの人びとの思いを実現しようと活動している。
三十数年の生涯の中で、ひとりの人と結ばれ、こどもに恵まれ、たくさんの人にメッセージを発信して亡くなったまおさんは、これからずっと旦那さんやお子さんたちの記憶の中で生き続けるのではないかと思います。
これは誰もが経験することであり、長い短いはあるけれど、うちの母だって今も父の記憶を大事にして生きていたりする。うちの母は、一緒にいられる期間が数十年あったので、それなりに一緒にいられて、しあわせだっただろうけれど、まおさんとえびぞうさんは、少し短かった。あとえびぞうさんには何年も人生があるわけだから、取り残された期間が長くなって、さびしさがずっとつきまとうでしょう。
それでも生きていけるかもしれないのは、記憶が残るからです。記憶って大事な気がします。愛って、記憶なのか。
愛って、簡単なことばでまとめることはできないですね。いろいろな愛があってもいい気がします。お互いが愛だと感じられたら、それが愛なのかもしれない。
でもただのことば遊びであったり、いま流行りの映像ごっこだったり、そうした心のないところには愛は生まれないという気がします。
そうだ。愛は心だ。いや、それは当たり前すぎて何とも言えないな。心は前提条件であり、心のない愛は愛ではない。
あまりおっぴろげで語るものではないですね。もっと内に秘めたものだ。でも、私みたいに秘めすぎていると、どこにあるのかわからなくなってしまうし、適当に表に出すことは必要です。
そして、愛ってなんだろう? と、問いかけることも大事な気がします。ずっといいかげんな、とりとめもないことになりました。失礼しました。何を朝から書いているのやら……。
彼女は昨日大変な一日で、でも大きな収穫のあった一日でもあったので、その疲れが出たのか、寝ている。ああ、どんどんしっかり休んでもらいたい。私がゴソゴソ起き出しても、見逃してもらいたい。また、すぐに起きちゃうんでしょうね。とにかく今、寝ながら考えたことを書きます。たぶん、つまらないことではありますが……。
愛って、いったい何なんだと思いました。若者の一部は、愛って、そりゃエッチなことだろ、なんて平気で言うヤツらがいます。まるでそれしか頭の中にないヤツらがいる。
それも愛の一部なのかもしれないけれど、それしか頭にないヤツらは、間違っているような気がするのです。まるで信仰は神への忠誠だと叫んでいる原理主義の人たちと同じのような気がします。
神様は決して忠誠なんか望んでおられないのに、人間の勝手な解釈で、自分の都合のいいように、他人を束縛するために神様を引き合いに出し、他人に迷惑をかける。これは愛でもないし、信仰でもありません。ただのわがままであり、神への冒涜です。おそらくそれを知りつつ方便でやっている。それを信仰だと信じ込まされている人たちは、信じ込まざるを得ないくらい苦しい立場にいる人たちなのかもしれない。でも、それは信仰ではなく、わがままであり、人を傷つけ、人を束縛したい、とんでもない権勢欲でしかない。
エッチなことを優先する人たちも、わがままな人であり、どこかで苦しみを味わってきた人たちなのかもしれないけど、それを他人に求めてはいけない。それは愛ではない。と、私は少しだけ言える年齢に達してきたようです。
愛って、記憶ではないか。と、昨日なんかは思うのでした。沖縄戦の終わった日であり、何十万の人びとが死にたくないのに、無理矢理に殺されてしまった日々、そこにはだれかのことを思い、だれかの平安を祈り、だれかを助けたいとみんなが必死になり、それでも死ななくてはならない状況があった。
今も、沖縄はそれが終わったのではなくて、少しだけソフトにはなったけれど、相変わらず負担を強いられ、だれかの平安を祈りたいのに、穏やかに祈ることができない状況が続いている。空にはいつも何かが飛んでおり、地上や海はいつも武器が散乱している。そんなものは置いて欲しくないのに、国のエライ人たちがそれを指示している。人びとは武器から解放されたいのに、日常的に一緒にさせられている。
それでも、人びとはたくさんの過去の人びとの思いに触れ、何とかしたいと考え、ずっとそれを変えようとしている。これは愛の発展形のような気がするのです。たくさんの人びとの思いを実現しようと活動している。
三十数年の生涯の中で、ひとりの人と結ばれ、こどもに恵まれ、たくさんの人にメッセージを発信して亡くなったまおさんは、これからずっと旦那さんやお子さんたちの記憶の中で生き続けるのではないかと思います。
これは誰もが経験することであり、長い短いはあるけれど、うちの母だって今も父の記憶を大事にして生きていたりする。うちの母は、一緒にいられる期間が数十年あったので、それなりに一緒にいられて、しあわせだっただろうけれど、まおさんとえびぞうさんは、少し短かった。あとえびぞうさんには何年も人生があるわけだから、取り残された期間が長くなって、さびしさがずっとつきまとうでしょう。
それでも生きていけるかもしれないのは、記憶が残るからです。記憶って大事な気がします。愛って、記憶なのか。
愛って、簡単なことばでまとめることはできないですね。いろいろな愛があってもいい気がします。お互いが愛だと感じられたら、それが愛なのかもしれない。
でもただのことば遊びであったり、いま流行りの映像ごっこだったり、そうした心のないところには愛は生まれないという気がします。
そうだ。愛は心だ。いや、それは当たり前すぎて何とも言えないな。心は前提条件であり、心のない愛は愛ではない。
あまりおっぴろげで語るものではないですね。もっと内に秘めたものだ。でも、私みたいに秘めすぎていると、どこにあるのかわからなくなってしまうし、適当に表に出すことは必要です。
そして、愛ってなんだろう? と、問いかけることも大事な気がします。ずっといいかげんな、とりとめもないことになりました。失礼しました。何を朝から書いているのやら……。