瑞巌寺の後は、次はどこへ行くんですか? 少し難しいですね。仙台から海沿いの街道があるから、それは普通に歩けます。そこから内陸に行くにはどうしたらいいのか、と思ったら、北上川がどれくらいの流れかわからないんですが、もし緩やかなら川舟で上っていくルートもありなんですけど、流れは急なんでしょうか。
岩手の一関とその北上川の河口の町の石巻には一関街道というのがあったそうです。知りませんでした。古い町並みも残っているということだから、今年の夏か、来年の夏、もし行けたら、行きたいと思います。すぐに芭蕉さんになった気分になるんですよ。お調子者ですから。
それなりに距離はあるはずだから、ここで一泊したんだろうか? そう、よくウチが見てしまう出川さんの電動バイクの旅、あれとだいたい同じくらいのスピードといえばいいんだろうか、それよりもう少しゆっくりなのかな。
でも、芭蕉さんは健脚ですよね。どっちが速いだろうな。
十二日、平和泉(ひらいずみ)と心ざし、あねはの松・緒(お)だえの橋など聞き伝えて、人跡(じんせき)稀(まれ)に雉兎(ちと)蒭蕘(すうじょう)の往きかふ道そこともわかず、終(つい)に路(みち)ふみたがえて、石巻(いしのまき)といふ湊に出づ。
五月の十二日(今の暦でいけば六月の終わりですか、蒸し暑いだろうな。でも、まだ春は浅いから、そういう蒸し暑さが恋しいくらいです)、
五月の十二日(今の暦でいけば六月の終わりですか、蒸し暑いだろうな。でも、まだ春は浅いから、そういう蒸し暑さが恋しいくらいです)、
平泉をめざし、あねはの松・緒だえの橋などの名所を教えてもらいながら、人が歩かないキジ、ウサギなどのけものたちの行き交う道に入り、道に迷ってしまったままにどうにか、とうとう石巻の港へ出ました。
せっかく石巻に来たんだから、ホヤとか、カキとか、フカヒレとか、芭蕉さん食べたらいいのに、昔はそんなもの食べなかったんだろうか。
「こがね花咲く」とよみてたてまつりたる金花山(金華山 きんかざん)、海上(かいしょう)に見わたし、数百(すひゃく)の廻船(かいせん)入江につどひ、人家(じんか)地をあらそひて、竈(かまど)の煙り立ちつづけたり。
黄金の花を咲かせる山と読める金華山が海に突き出た半島のようです。数百の廻船が入江に集い、人家が平地にぎっしり集まっていて、かまどの煙が立ち続けていました。
黄金の花を咲かせる山と読める金華山が海に突き出た半島のようです。数百の廻船が入江に集い、人家が平地にぎっしり集まっていて、かまどの煙が立ち続けていました。
思ひがけずかかる所にも来たれるかなと、宿からんとすれど、さらに宿かす人なし。
思いがけず、こんなところにやって来たものだと思い、今夜の宿を探したのですが、まったく宿を貸してくれるところはありませんでした。
さあ、泊めてもらうところもなしに石巻の町まで来たんですね。門人とか、知り合いとか、そういう人はいなかったんですか? 泊まらずに夜通し歩くのでしょうか?
漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明くればまたしらぬ道まよひ行く。
ようやく貧しい家の家に一夜の宿を借りて、翌日もまた知らない道をさまよい歩きました。
漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明くればまたしらぬ道まよひ行く。
ようやく貧しい家の家に一夜の宿を借りて、翌日もまた知らない道をさまよい歩きました。
石巻でお泊りしたんですね。それは良かった。だったら、もう十三日になったんですね。何を楽しみに歩くんですか?
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱(かや)はらなどよそめにみて、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行く。
そでの渡り、尾淵の牧・まののかや原などを遠くに見ながら、はるかかなたまでつづく堤防を歩きました。
袖のわたり・尾ぶちの牧・まのの萱(かや)はらなどよそめにみて、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行く。
そでの渡り、尾淵の牧・まののかや原などを遠くに見ながら、はるかかなたまでつづく堤防を歩きました。
一関はまだ遠いですよ。どこにいくの?
心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)といふ所に一宿して、平泉にいたる。その間(あい)廿余里(二十余里)ほどとおぼゆ。
心細いような長い沼に沿う道を戸伊摩というところで一晩泊まり、平泉に着くのでした。その間は八十キロほどありました。
心細き長沼にそふて、戸伊摩(といま)といふ所に一宿して、平泉にいたる。その間(あい)廿余里(二十余里)ほどとおぼゆ。
心細いような長い沼に沿う道を戸伊摩というところで一晩泊まり、平泉に着くのでした。その間は八十キロほどありました。
この記述からすると、十三日に平泉に着いたという風に理解してもいいでしょうか。松島から石巻経由で一関まで一泊二日で歩いたということですね。
曽良さんに訊いてみましょう。
十日 快晴。松島を立つ(馬次に 而なし。間廿丁ばかり)。馬次、高城村、小野(これより桃生郡。二里半)、石巻(四里余)、仙台より十三里あまり。小野と石の巻(牡鹿郡)の間、矢本新田と云ふ町にして咽乾く、家毎に湯乞へども与へず。刀さしたる道行人、年五十七、八、この体を憐れみ、知人の方へ一町ほど立ち帰る、同道して湯を与ふべき由を頼む。
十日 快晴。松島を立つ(馬次に 而なし。間廿丁ばかり)。馬次、高城村、小野(これより桃生郡。二里半)、石巻(四里余)、仙台より十三里あまり。小野と石の巻(牡鹿郡)の間、矢本新田と云ふ町にして咽乾く、家毎に湯乞へども与へず。刀さしたる道行人、年五十七、八、この体を憐れみ、知人の方へ一町ほど立ち帰る、同道して湯を与ふべき由を頼む。
十日、仙台から53キロくらいになるんだけど、松島からだったらもう少し近いはずですが、のどが渇きつつ馬次、高城、小野、矢本新田などの地名を記録しつつ、石巻に着いたようです。
また、石の巻にて新田町四兵へと尋ぬ、宿これを借るべき由(よし)云ひて去る。名を問ふ、ねこ村(小野の近く)、こんの源太左衛門殿。教える如く、四兵へ尋ねて宿す。着の後、小雨す。 頓(にわか)にして止む。
芭蕉さんに「まどしき家」と言われたのは、新田町のしへい(四兵)という人なんだろうけど、記録に残るのはいいけど、あまり上手に取り上げてもらえてなくて、何だか恩をあだで返された気分でしょうか。
日和山と云ふヘ上る。石の巻うち残らず見ゆる。奥の海(今わたのはと云う)・遠嶋・尾駮の牧山眼前なり。真野萱原も少し見ゆる。帰りに住吉の社参詣。袖の渡り、鳥居の前なり。
本当は、日和山から金華山を見たり、牡鹿半島を眺めることができたはずですけど、そういうことは書かなくて、ただ地名を取り上げ、日和山のことは言わずに省略という形にしたんですね。
十一日 天気能し。石の巻を立つ。宿四兵へ、今一人、気仙へ行くとて矢内津まで同道。後、町はづれにて離る。石の巻二里 、鹿の股。飯野川(一里あまり渡しあり。三里に遠し。 この間、山のあい、長き沼あり)。矢内津(一里半、この間に渡し二つあり)。曇。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)、儀左衛門宿借らず、すなわち検断告げて宿す。
戸いまでは、検断さんか、ギザエモンさんか、どちらかに宿を借りるつもりだったのが、ショウザエモンさんちになったということですね。
十一日 天気能し。石の巻を立つ。宿四兵へ、今一人、気仙へ行くとて矢内津まで同道。後、町はづれにて離る。石の巻二里 、鹿の股。飯野川(一里あまり渡しあり。三里に遠し。 この間、山のあい、長き沼あり)。矢内津(一里半、この間に渡し二つあり)。曇。戸いま(伊達大蔵・検断庄左衛門)、儀左衛門宿借らず、すなわち検断告げて宿す。
戸いまでは、検断さんか、ギザエモンさんか、どちらかに宿を借りるつもりだったのが、ショウザエモンさんちになったということですね。
あれ、石巻から平泉まで一気に歩いたと芭蕉さんは書いていたけど、それは大変だなと思ってたら、ちゃんと戸いまで泊ってるんですね。それは良かった。
戸いまって、そんな地名はないなあと思ってたら、現在は登米市(とめし)という町があって、そこがお泊りの場所でした。
十二日 曇。戸今(とよま→登米市)を立つ。三里、雨降り出る。上沼新田町(長根町とも)三里、 安久津(松嶋よりこの処まで両人ともに歩行。雨強く降る。馬に乗る)。一里、加沢。三里、一の関(みな山坂なり)。黄昏に着く。合羽もとおるなり。宿す。
雨は降り続き(何といっても、梅雨のシーズンですから)、合羽も役に立たないひどい降り方をしているようです。三日かけてようやく一関に着いたんですね。
雨は降り続き(何といっても、梅雨のシーズンですから)、合羽も役に立たないひどい降り方をしているようです。三日かけてようやく一関に着いたんですね。
このあともう一泊するんですけど、一関は芭蕉さんは省略します。まあ、平泉でたくさん書いたから、もういいやと思ったんでしょう。それは少し残念だけど、そういう芭蕉さんに取り上げてもらえなかった町って、たくさんあるんでしょうね。
登米市だって、何も書いてくれてないですもんね。
さあ、明日は平泉です。ほんの四キロほど、クルマだったら、坂を少し上って、降りたらもう視界が開けて平泉の町になります。東北本線は貨物列車がずっと走ってたりするんだけど、今はどんなだろう。臨時快速走っているかな。臨時特急も走らせたらいいのに、そういうのはできないみたいです。何だか残念です。せっかく新幹線が不通になってるのにな。