今年もあと2日で、このブログは3日までお休みさせていただきます。旅先でもブログができるのをこの夏におぼえましたが、私のケータイではお金がかかるので、ケータイでは打ち込まないで、できれば3日から再開したいと思います。ぜひ3日からよろしくお願いいたします。
さて、年末の題材として、啄木くんの二十歳のころを見ています。彼と一緒に、自分はこれからどうなるのか、という気分で年末を過ごしたいと思ったからです。この1907・M40は、彼の北海道時代・二十歳の頃になります。1年間あわただしく南の函館から、札幌・小樽・釧路と移動して、翌年の4月には東京へ出て行きます。
前回も書きましたが、今の私はもちろんのこと、二十歳の私でも、そんなバイタリティは持っていませんでした。二十歳で妻子を持ち、一家の中心となって働くなんて、考えられません。
今は一応、一家の働き手にはなっていますが、そのために各地を転々とする気力はありません。単身赴任もできないだろうし(できたとしても、家族を引きずりながら単身生活をするでしょう)、1人だととても心細い思いをしたでしょう。北海道の釧路に1月に赴任するなんて、なかなかの勇気が必要です。
まあ、三重県の田舎でヌクヌクと生きているので、北海道の寒さが想像できないのでしょう。だから一層怖い気がします。
彼の2日間を振り返ります。
12月30日
日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。この日終日待てども来らず、夜自ら社を訪へり。俸給日割二十日分十六円六十銭 慰労金十円、内前借金十六円を引いて剰す所僅かに十円六十銭。
帰途ハガキ百十枚を買ひ煙草を買ふ。巻煙草は今日より二銭宛高くなれり刻みも亦値上げとなれり。嚢中(のうちゅう・ふところの中)剰す所僅(わず)かに八円余。噫(ああ)これだけで年を越せといふのかと云ひて予は哄笑せり。
老母の顔を見るに忍びず、出でゝ北門床に笹川君を訪ふ。要領を得ず。夜年賀状を書いて深更枕に就く。衾襟垢に染みて異様の冷たさを覚ゆ。この日函館なる岩崎君より手紙ありき。
大晦日
来らずともよかるべき大晦日は遂に来れり。多事を極めたる丁未の年は玆(ここ)に尽きむとす。然も惨憺(さんたん)たる苦心のうちに尽きむとす。此処(ここ)北海の浜、雪深く風寒し。何が故に此処迄はさすらひ来し。
多事なりし一歳は今日を以て終る。この一歳に贏ち得たる処何かある。噫、歳暮の感。千古同じ。
朝澤田君に手紙を送る。要領を得ず。外出して俳優堀江を訪ふ、逢はず。帰途大硯君に会す、
「大晦日は寒い喃。」「形勢刻々に非なりだ。」行く人行く人皆大晦日の表情あり。
笹川君に妻を使す。要領を得ず。若し出来たら午后十時迄に人を遣らむと。
予は英語の復習を初めたり。掛取(借金取り)勝手に来り、勝手に後刻を約して勝手に去る。
夜となれり、遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しづつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。
かくて十一時過ぎて漸く債鬼(さいき)の足を絶つ。遠く夜鷹そばの売声をきく。多事を極めたる明治四十年は「そばえそば」の売声と共に尽きて、明治四十一年は刻一刻に迫り来れり。
丁未日誌終
★ 1903年に夏目漱石が第一高等学校講師となったときの年俸が七百円で、ものすごくおおざっぱに見て、当時の1円が今の1万円としたら、啄木は月に十万で一家四人の生活を支えていた感覚になるでしょうか。もう少し多い感じかな。それにしても、あまり贅沢はできませんねぇ。
来たらずともよかるべき大晦日は、勝手にやってきます。借金取りもやってきます。だから、質屋に着物を持って行って、何とかお金を工面します。それで、借金取りに対応し、夜になり、一応1年の終わりを迎える。しばらくしたら、また新たな借金をしたり、借金取りが気分を新たにやってきたりするでしょうが、とにかく区切りをつけることが大事で、みんな最後の2日間を過ごすことになります。
去年の私は、例によって実家へ帰る前のユーウツに入り、実家から帰ると新しい1年が始まる気分の重さを味わいしていたことでしょう。
去年と何が違うといえば、毎日ブログする楽しみが増えたくらいで、その分読書量は減り、テレビも映画も見ないで、PCの画面を見るだけの時間が増えましたっけ……。
新しい1年は、乙未(きのとひつじ)になるようです。啄木の二十歳の時は丁未(ひのとひつじ)だったのですね。どんな年が来るのか、火山噴火・放射能拡散・地震・大雨災害・台風・大雪などの自然災害はまた来るでしょう。韓国・中国・北朝鮮・ロシアなど、東アジアは相変わらず不安定な関係がつづくでしょう。
東南アジアは活性化し、南アジアや中東、アフリカ海岸部もどんどん工業化をめざすでしょう。日本はそれらの国の発展に寄り添う形で、自国の将来像も描いていくでしょう。でも、近隣のアジア諸国と一緒に発展しようという心がないので(とにかく利益を自分の国に呼び込もうという魂胆しかありません)、近隣諸国から見透かされているのに、ニタニタしながら儲かることだけを選び取ろうとするでしょう。
国民もそれでいいと思っているでしょう。せいぜい発展するアジアで、儲かる話を見つけて、お金を儲けてこいとみんなが思っている。
そうではなくて、ダメなものはダメ。日本は儲かるかもしれないけど、それを作らせてはダメ。それを持たせてはダメと、相手のことを考えて、自分の国で失敗したことを、同じように失敗させるスタンスではダメです。
そして、門戸開放です。ミャンマーでも、ラオスでも、カンボジアでも、北朝鮮でも、中国でも、チベットでも、いろんな国の人々を受け入れて、みんなが混在しながら、新しい日本を作っていけるように、私たちみんなが切り替えなくてはいけないと思います。
私の住む町には、たくさんのアジア系の隣人が静かに息づいています。私は、この人たちと日本人は何か違うなと思いつつ、でも、もっとこの人たちと一緒に町作りができたらとも思います。今の町は、ただ何となく増えているアジア系の人たちを、何となく受け入れて、棲み分けています。でも、もっとぐしゃぐしゃになって、お互いの交流ができたら、新しい日本ができるのになあと思ったりします。
私の町に住む隣人と仲良くなって、その人の案内でフィリピンに遊びに行くとか、一緒にタイに行くとか、そんなことのできる町になってくれたら、それくらいお互いの交流が進めばいいのにと思います。
そうですね。フィリピンのことは、いつか書かなくてはいけないですね。また来年書こうと思います。
それでは、1年間ありがとうございました。みなさんも良いお年をお過ごしくださいませ!!
★ そして、移民に開かれた国のフランスでのテロ事件が起こりました。これをきっかけに極右の人たちは、移民を追放しろ! イスラム教徒を放り出せ! と叫び、若者たちがそうした声に同調すると思われます。
日本だって同じです。国内にいる外国人は出て行け! 中国・韓国に対して強硬な姿勢で臨め! という声なき声があって、それを味方にして現在の安倍政権は成り立っている。周辺諸国に対する敵愾心(てきがいしん)は、安部さんには願ったりかなったりで、このままの流れを維持しつつ、経済交流はできるだけ続けさせよう、というお考えのようです。政治は冷えても経済は冷えないと確信している。
私たちは、不景気・強硬発言の中国や韓国の首脳・無言の圧力を続ける中国海軍と空軍、こういったことに慣れてしまって、自分ではどうしようもないことに怒り、少しずつ嫌中感・嫌韓感を育てつつあります。
その他の外国人の、ブラジルの人たちは少数派だから大目に見て、フィリピンやタイ・インドネシアという国はとにかく出稼ぎに(企業戦士が)行くところであって、あちらからも出稼ぎ労働者が安い賃金で入ってきているので、冷ややかな目で見て、同じ空間に生活していても、空気のように無視しながら日々の生活を送っています。
何かのきっかけがあれば、フィリピン出て行けとか、どんな風向きになるのかわかない状況です。
問題になっているマクドナルドだって、「中国は本当にとんでもない、不衛生な国だ」と見限って、「タイならまだましだろう」と、安い賃金・工賃で値切りに値切って作らせて、治療した歯が出てきたり、青いビニールが出てきたら、「タイもまともに仕事のできない国だ」と見限るのでしょうか。
どこでだって、失敗はあります。どんなに衛生管理に努めていても、先日のペヤングさんみたいに、国内でも食品に異物が混入することはあります。
だから、国ではなくて、人でもなくて、工業製品に不良品が入る場合もあると自覚し、事件があれば、マクドナルドのように隠すのではなくて、しっかり公表して、適正な値段で商品を販売し、価格が高いのであれば、消費者もある程度吟味しながら消費活動をして、いいかげんな扇動に乗らず、冷静に判断していってもらいたいと、願うばかりです。
今後もテロは続くでしょう。若者に不満がある限り、銃や銃弾が自由に使えるのであれば、不満を持った人たちがそのはけ口に、無意味なテロを起こし、人々を不安にさせるでしょう。
ですから、それらに負けないで、不安を抱える若者をほぐしてあげて、彼らの力を社会にうまく傾けられるように、大人たちは考えなくてはいけない。自民党の政策のように、未来の日本人に借金して、今の日本人たちにカネをばらまくだけではいけないと思います。
だったら、どんな具体策があるのか、それがなかなか思いつきませんが、教育は大事な柱かなと思います。外国の人たちがどんどん入ってきて、たくさんの家族が日本で生活している。けれども、今の日本の教育は、こうした外国人家庭に開かれているとは言えない。少しだけ開いているけれど、丁寧に外国人の子どもたちを育てようという考えがありません。
ですから、せめて私のまわりでも、今いる外国人の子どもたちが、日本社会に上手にとけこめるようにしてあげられたらと思います。漠然とした言い方ですが、将来、そういうボランティア的なことが、できたらいいなと思います。