高校時代からずっと大好きな色川大吉先生の本を、2年前に、とある古書市で買いました。書名は「わだつみの友へ」(1993 岩波同時代ライブラリー)といいます。色川先生は自分史としてすでに「ある昭和史」という本は出しておられたのですが、戦争末期の状況を、現在と照らし合わせながら、多くの仲間たちが亡くなっていった無念さをこめて、まとめておられます。その冒頭から三重県に関連しています。
さまよう魂
もう地名もその人の名も忘れてしまったのだが、私が三重海軍航空隊へ転勤し、答志島基地にまわされる前、ある富豪の別荘に一時、仮住まいをしたことがある。
それは太平洋を一望する岬の突端に建てられた宏壮、優雅な邸宅で、傾斜地を波打ち際の岩礁まで、桜、桃、アンズなど色とりどりの花木に飾られたみごとな遊歩道を持つ別天地であった。
なんでも軍需会社を経営する関西系の富豪ということであったが、一度、その主人に逢ったことがある。若い女にかしずかれて、朱塗りの中国風の回廊ですれちがった。そのころは硫黄島が米軍に占領され、沖縄の死闘がはじまっていたので、私たちの基地もP51戦闘機にしばしば襲われたし、本土近海にも敵機動部隊が出没して、艦砲射撃がはじまっていた。
滅びのまえの静けさ、一つの歴史のたそがれ、その終末の混乱のなかで、この優雅な世界は救いであった。
特攻機がつぎつぎと沖縄海域に向かって飛び立っていた。私たちは比島(フィリピン)でのわが艦隊の壊滅(かいめつ)を知っていたので、毎日毎日が胸をおさえられるような悲痛感のなかにあった。その別邸から島の基地におもむく海上で、敵機の襲撃をうけ、至近弾を浴びたこともあった。
もう地名もその人の名も忘れてしまったのだが、私が三重海軍航空隊へ転勤し、答志島基地にまわされる前、ある富豪の別荘に一時、仮住まいをしたことがある。
それは太平洋を一望する岬の突端に建てられた宏壮、優雅な邸宅で、傾斜地を波打ち際の岩礁まで、桜、桃、アンズなど色とりどりの花木に飾られたみごとな遊歩道を持つ別天地であった。
なんでも軍需会社を経営する関西系の富豪ということであったが、一度、その主人に逢ったことがある。若い女にかしずかれて、朱塗りの中国風の回廊ですれちがった。そのころは硫黄島が米軍に占領され、沖縄の死闘がはじまっていたので、私たちの基地もP51戦闘機にしばしば襲われたし、本土近海にも敵機動部隊が出没して、艦砲射撃がはじまっていた。
滅びのまえの静けさ、一つの歴史のたそがれ、その終末の混乱のなかで、この優雅な世界は救いであった。
特攻機がつぎつぎと沖縄海域に向かって飛び立っていた。私たちは比島(フィリピン)でのわが艦隊の壊滅(かいめつ)を知っていたので、毎日毎日が胸をおさえられるような悲痛感のなかにあった。その別邸から島の基地におもむく海上で、敵機の襲撃をうけ、至近弾を浴びたこともあった。
日本の敗戦が確実と思われた以上、誰も彼もが明日のたしかな命を信じていなかった。私たちも波の間にただようような淡い実在感の上に生きていた。そうしたとき別世界に見えたあの邸宅の中にも、外部の者には窺いしれぬドラマが進行していたにちがいない。当時の若者の心情としては、基地にとどまることは辛く、特攻隊に志願することの方が気持ちのうえでは楽であった。
たしかに今の歴史観からすれば、愚かであったにちがいない。しかし、当時の情況のなかにあって、まだ年端もゆかぬ二十歳前後の若者に、それも死のことばかり思いつめさせられてきた彼らに。どうして愚かなどと言えようか。彼らは今の若者たちの数十倍も必死になって、全力を尽くして、日々刻々を生きていたのだから。
これは、色川青年にほんの少しだけ豪邸暮らしを味わわせて、思い残すことをなくさせて、特攻隊に志願させる懐柔策だったのかもしれません。それとも、上官の取り計らい? なぜこんなゆったりした時間を持たせてもらえたんだか……。
ひょっとしてこの別荘は今もあって、当時と同じ風景が広がっているかもしれません。全く同じように季節は移り変わり、時代は大変動をしているのに、そんなことが本当にあるのかわからないくらい、ゆったりとした時間が流れている。このギャップを、現在の私たちも感じることがあります。
ひょっとしてこの別荘は今もあって、当時と同じ風景が広がっているかもしれません。全く同じように季節は移り変わり、時代は大変動をしているのに、そんなことが本当にあるのかわからないくらい、ゆったりとした時間が流れている。このギャップを、現在の私たちも感じることがあります。
今日、三重県の尾鷲市では最高気温が17℃だったそうで、早咲きの桜が咲いたそうで、とてものどかな場面が夕方のニュースで流れていました。「ああ、ありがたい」「ああ、きれい」とオバチャンたちからコメントをもらっていました。そんなのどかな風景の今、シリアでは内戦がつづき、エジプト、アフガン、南スーダンなど、あちらこちらで戦いがつづいているかもしれない。それなのに、ウソみたいなのどかな風景も同時に存在している。
それはもう、地球は広いのだから、各地でいろんなことが起こっているのは当たり前で、それを悲観してもどうにもならない。けれども、この空をたどったところ、この海のつづくところ、この地面のどこかのはじっこでだれかが武器を持って殺し合いをしているとしたら、それはどうしようもないギャップだけれど、それを埋める努力をしたくなるのが人情だと思います。
たとえば、色川先生は、特攻隊に志願した方が楽だ。今、自分がこんなにゆったりしているのはおかしい。今の時間はニセモノで、ホンモノは戦場だ! と結論づけるのは、とても自然なことだと思います。今、とてもだらしない毎日の私だって、あまりにまわりの人の死を見せつけられ、その波が押し寄せるのを感じたら、「それならいっちょう、行ってみようか」という気持ちになるかもしれません。
だから、人々を駆り立てるには、硬軟取り混ぜて危機感をつのらせて、時にはやさしくゆったりさせつつ、世界各地で戦っている日本人たちのことを知らせていけば、「オレたちも戦場に行かなきゃ」と思うかもしれないです。
引用をつづけてみます。
1945年6月、あんなに空が青く見えたことはなかった。海上の小島で、あんなに木々の緑が目にしみたことはなかった。生まれてこのかた、決してなかった。空が限りなく青く見えたとき、それは死のまなざしだった。そして死を覚悟したとき、自分をとりまく自然が、命の叫喚にみちていることに改めて気づいた。まだ二十歳だった。立身の夢はとっくに消えていた。父母や妹のいる山河のことを思った。自分を犠牲にすることは悲しくなかった。だが、まだ、やり足らなかった多くのことが未練だった。誰が生き残って誰が死ぬかはまったく偶然だった。朝、目ざめて五体が満足についていることに驚く日があった。
そうした若者に、「死して悠久の大義に生きよ」とか、「日本浪漫派」的な救いを説いて、感動をあたえたものは罪である。しかも、自分は戦後に生き残って、彼らをのみ死地に追いやった罪は万死に値する。
当時の私より若い飛行機乗りのある学生兵が、こんな言葉を遺している。
「この若さにおいて散ることこそ、自分の最も本望とするところ……心中で泣いて合掌しながらも、表面ではただただ微笑をたたえて、情けある母の哀訴嘆願に対さねばならない。この矛盾、そしてこのジレンマ、自分は二つの相反した魂の葛藤に、心苦しくも泣き、果ては慟哭したのであった。……お母さん、お気持ちはようくわかります。しかし、時代とわれわれの教養が、お言葉にそうのを許さないのです。どうぞ先立つ不孝をおゆるしください」(『きけわだつみのこえ』)
そうした若者に、「死して悠久の大義に生きよ」とか、「日本浪漫派」的な救いを説いて、感動をあたえたものは罪である。しかも、自分は戦後に生き残って、彼らをのみ死地に追いやった罪は万死に値する。
当時の私より若い飛行機乗りのある学生兵が、こんな言葉を遺している。
「この若さにおいて散ることこそ、自分の最も本望とするところ……心中で泣いて合掌しながらも、表面ではただただ微笑をたたえて、情けある母の哀訴嘆願に対さねばならない。この矛盾、そしてこのジレンマ、自分は二つの相反した魂の葛藤に、心苦しくも泣き、果ては慟哭したのであった。……お母さん、お気持ちはようくわかります。しかし、時代とわれわれの教養が、お言葉にそうのを許さないのです。どうぞ先立つ不孝をおゆるしください」(『きけわだつみのこえ』)
今、私の息子はちょうどあのころの私たちの年となり、背丈も体重も私を越えた。〝泰平楽〟の世の中に自由にそだった屈託のない、覇気のない息子たちの姿をみつめていると、なにか早く死んでしまった若者たちが、途方もなくかわいそうな気がして涙がこみあげる。
彼らは今ごろどこをさまよっているのだろう。どこに始まってどこに終わるともしれない、波に消される歴史の運命(さだめ)の砂浜を、「永遠に歩かねばならぬ、永遠に歩き続けねばなりません」と呟きつつ、行きつ戻りつしているようにおもえるのである。
彼らは靖国神社には決していない。
さまよう彼らの魂が、どうして今の靖国などにやすらうことができようか。
色川先生はたまたま生き残りました。そして彼らの無念を思い、悲しんでおられます。私にも、少しだけその無念さは伝わってきます。今の世の中の景気さえよければいいという風潮。これはもう過去の無念さを抱いて亡くなっていった若者たちと、完全に切れています。そんなことがあったことなんて、一切忘れているようです。
私も、流されやすい人間ではありますが、少しでもブツブツ思い続けていきたいです。
私も、流されやすい人間ではありますが、少しでもブツブツ思い続けていきたいです。
色川さんが亡くなったことを知り、三重海軍航空隊で検索し、ここを見つけました。ここに記されていることは、恐らく、父が経験したことと同じだと思います。わだつみの友へを読んでみて、当時の父の気持ちを少しでも知りたいと思います。
私は、色川先生が書かれたものは、基本元気が出てくるし、こんなんじゃいかんという気にもさせてくれるし、何冊かは読ませていただきました。読まないままのものもあります。
そして、自分が今住んでいる三重県も、先生が自らの命を見つめながら、これからどうなるものかとずっと考えておられたところだったのだということを知ることができて、私と先生との細い縁も感じることができました。
先生も、司馬遼太郎さんも、この時の戦争体験が、国とは何か、人々はどんなふうに国家から翻弄させられるのかというのをつくづく感じられたんだと思います。
先生たちの原点はここでした。
私は、それらを読み、知り、今も変わらない大きな権力に振り回される自分たちはどうあるべきかを考えたいと思っています。
うちの父はまだ十代後半で、グラマンに撃ち落されるゼロ戦と、浜辺のタコツボ訓練と、そういうことを話してもらっただけでした。母にも戦争につながる話はありますが、具体的なものではなくて、心情的なお話が多かったでしょうか。
家族がそこで日々過ごしたこと、時には思い出し、若い人たちに語っていく立場にいるのかな、という気もしました。
コメント、本当にありがとうございました。