第18回で出てきた陽貨(陽虎)さんをとりあげます。
魯の国で主君を凌(しの)ぐ独裁的な専制主義者ですが、元々の身分はそれほど高くなかったそうです。けれども、たたき上げで王族の親戚である三桓氏(さんかんし 三つの勢力家系)の家宰(宰相)としての地位を手に入れます。
後々にはクーデターを起こして、逆に追放されてしまうくらいだから、それなりに野心家ではあったでしょう。ということは、それなりにスタッフが必要で、孔子さんのことも「自分のスタッフとしてなら雇ってあげてもいいぜ」くらいには思っていたんでしょう。
孔子さんが、そんな野心たっぷり、野望たっぷりの政略家に仕えるわけはないのに、とにかく恩を売らなきゃならないし、そういう人はたいていすべてのものはお金で解決できると思っているし、とにかく人々が喜ぶものをプレゼントしてしまえと思って、すぐに行動に出たのでしょう。
「論語」の最後の方は、わりと物語がいくつかあって、第十七編目は「陽貨」というそのものズバリのタイトルがついています。
さて、どんな物語が載っているんでしょう。
陽貨さんが孔子さんに面会しようとしました。もちろん、孔子さんは会いませんでした。のし上がってきた野心たっぷりの男なんて興味がなかったですし、そんなヤツに仕えることなど考えてもみなかったでしょう。孔子さんは仕えた主人に成り代わって権力をふるうとか、全く考えていなかったのです。
陽貨さんは豚を贈り物として贈りました。孔子さんは陽貨さんには会いたくはないので、陽貨さんの留守をうかがってお礼に行きました。
しかし、途中で陽貨さんと遭遇してしまいます。間が悪いこともあるものです。陽貨さんは孔子さんに話しかけます。
「さあ、私のもとに来てください。私と共に語り合いましょう。あなたはご自身の中に宝をお持ちなのに、その宝を使うこともなさらずに、国家を放置したまま、混迷にさせておられます。それは仁(人としての道)なのですか」
とても挑発的な語り口です。もちろん、孔子さんはそんな手には乗りませんよ!
「確かに、(私が政治を行わないのは)仁とはいえないかもしれません。私もダメだとは思っております」
チャンスと見た陽貨さんはたたみかけます。
「政治を行おうと思っておられるのに、そのチャンスをみすみす逃しておられる、これは知(ものごとをちゃんとわきまえている)と言えますか。どうです」
孔子は「確かに知とはいえない」と答えられます。
陽貨さんは、孔子さん的な物言いも考えていたのでしょう。
「月日は淡々と過ぎていくものです。歳月は、私を(もちろんあなたも!)待ってはくれませんよ(私の与えたチャンスに乗りなさい!)」
孔子さんは言います。「諾(だく)。吾(われ)将(まさ)に仕えんとす」
「わかりました。私はあなたのもとにお世話になりましょう」
孔子さんは、スタンダードな徳治政治を理想としていました。ですから、正統な君主が実際に政治を行う形こそ本来のもので、家臣が好き勝手なことをするのは政治だとは考えておられなかった。
ということは、魯の主君(昭公)を凌いで家臣(諸侯)・陪臣が実権を振るう現状は許せないものであった。その張本人である陽貨さんにいくら甘い誘いを受けようとも、全く話にもならなかったのです。
なのに、どうして「諾(わかりました)」なんて言ったんだろう。
それは礼儀として言ったまでで、まるで陽貨さんのところに行く気配はなかったそうです。口でなら何とでも言えますからね。高等交渉術ということなのかな。これも政治というべきでしょうか。
さて、才能に恵まれた政治家であった陽貨さんは、結局、紀元前502年に三桓氏(魯の実力者の御三家)の激しい反撃を受けて破れ、魯の国外に亡命することになります。孔子さんもしばらくしたら魯の国を出ますが、このくせ者の陽貨さんに似ていたということで後に被害を受けますが、不思議な縁がありますね。
そうした浮ついた人間関係を示すことぱとして、次の26番があります。
26【道聴塗説】……道で人から聞いたことを、すぐ道端で他の人に話すこと。よい話を聞いても、それを心にとどめておかないこと。また、他人の説をすぐ受け売りすることや、いいかげんな世間のうわさ話の意味でも使う。〈陽貨〉
→徳を捨てる行為という「道聴塗説」の読みは?
そのまま四文字を音読みするだけなので、答えは簡単です。
このことばのすぐ前には「郷原(きょうげん)は徳の賊(ぞく)なり」というのもあります。
その意味は、「村での善人といわれるものは、うわべだけ道徳家に似ているから、かえって徳を損なうものだ」ということだそうで、田舎の物知り・田舎のいい人って、八方美人的で、結局どっちつかずになりがちで、何事もなしえないことが多い、みたいな感じかな。
道端でだれかから情報を手に入れて、それを恥の上塗りでいけしゃあしゃあと知ったかぶりでしゃべっていること、これはご立派そうに見えたとしても、中身はないし、極力避けねばならないことである。すべてウラを取って、確信をもって、相手に話しかけなくてはならない。
難しいことです。私などは日々道聴塗説で、恥も外聞もありません。恥一直線の受け売り大魔王なのです。
やっとタイトルにたどり着きました!
★答え 26・どうちょうとせつ