あるじのいはく、これより出羽(でわ)の国に大山(たいざん)を隔(へだ)てて、道さだかならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。
この家(一夜の宿を借りるつもりが大雨で三泊させてもらったおうち)の主人が言うには、ここから出羽の国に出るには、途中に大きな山があって、道もはっきりしないので、道案内の人を頼んで越えるがよい、とのことでした。
確かに、長くてアップアンドダウンの続く道でした。国道でもそうなのだから、昔の街道では、人通りがないということはなかっただろうけど、さびしい道ではなかったのか、という気がします。
さらばといひて人を頼みはべれば、究境(くっきょう)の若者、反脇指(そりわきざし)を横たへ、樫(かし)の杖を携へて、われわれが先に立ちて行く。
「それならば、そのオススメ通りにしましょう」と言って人を頼んだところ、いかにも強そうな若者がそり脇指を腰に横たえ、樫の杖を手にして、自分たちの先に案内して行くことになりました。
やはり、現代語訳は「デス・マス」体の方がしっくりくるんだけど、芭蕉さんは「デアル」体かな。全部書いてから、もう一度深川の芭蕉庵から岐阜の大垣まで文体のチェックしないといけないですけど、とにかく、若い武士みたいな人が来てくれました。どんな人なんだろう。
今日こそ必(かなら)ず危(あやう)きめにもあふべき日なれと、辛(から)き思ひをなして後(あと)について行く。
これまではともかくも無事だったけれど、今日という今日こそは、きっと危ない目にあう日にちがいないと、若者の後ろについて行く。
こんな前振りがあって、どんな危険なこと・トラブルが起こるのか、読者はハラハラドキドキになりますね。
あるじのいふにたがはず、高山(こうざん)森々(しんしん)として一鳥(いっちょう)声きかず、木の下闇(このしたやみ)茂りあひて夜行くがごとし。
なるほど主人の言う通り、高い山には森々と木立ちが生い茂り、鳥の鳴き声一つ聞こえず、木下闇は文字通りまっくらに茂りあって、さながら夜道を行くがごとくです。
深い森にはトリさえ鳴いてないの? そういう体験も貴重ですね。でも、これはひょっとして芭蕉さんの創作なんだろうか? 実際に歩いてみないとわからないけど、たぶん、私が実証することはできません。
芭蕉さんはウソ書いてるんだとか、それを確かめなくてもいいし、そういう山深いところを越えないと、日本海側の異世界には行けなかったんでしょう。芭蕉さんが、別のキャラになるための試練だったんでしょう。
雲端(うんたん)につちふる心地(ここち)して、篠(しの)の中踏み分け踏み分け、水をわたり、岩に蹶(つまず)いて、肌に冷たき汗を流して、最上(もがみ)の庄(しょう)に出(い)づ。
深山を陰風(湿気を帯びた風)が吹き抜けるさまに、雲の果てから土を吹き下ろすと詠じた杜甫の詩句そのままの感を覚えながら、篠の中を踏み分け踏み分け、渓流を徒渉(としょう)し、岩につまずいたりしながら、肌に冷や汗を流して、やっと最上の庄に出た。
この表現だと、沢登りしたり、とてもワイルドな山越えだったような感じです。それを確かめたいけど、どこかで誰かが書いてないかな。
かの案内(あない)せし男(おのこ)のいふやう、「この道必ず不用(ぶよう)のことあり。
私たちを案内してくれた男が言うには、「この道ではいつもきっと乱暴なことが起こるのです。
それって、どんなこと? もっと具体的に話してくれたらいいのに。次のところに出てくるかな?
恙(つつが)なう送りまゐらせて仕合(しあ)はせしたり」と、喜びて別れぬ。
今日は無事にお送り申すことができて、よい塩梅(あんばい)でした。」と、無事を喜んで別れて行った。
自分で自分を褒めたいという、かなり素直なコメントでした。でも、山賊が出たり、クマが出たり、イノシシが出たり、いろんなトラブルが起こる道だったのかもしれません。それを無事に案内することができた、それはラッキーだし、グッドジョブでした。青年は、再び元来た道を引き返したんだろうか。それが気になりますね。
跡(あと)に聞きてさへ、胸とどろくのみなり。
あとになって聞いてさえ、胸がどきどきするばかりでありました。
さあ、何ごともなく山の向こう側にたどり着きました。そこは山でいくつかに仕切られている広大な山形県でした。海側の庄内地方、太くて長くて速い最上川もありました。流域は独特の世界になっています。南は米沢などの置賜地方。天童、山形、上山などのまん中、それから北側の尾花沢、それぞれ独自の世界があるはずでした。
さあ、深くて広い山形に来ましたよ。芭蕉さん、どこへ行くんだろう。