甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

歩き、歩き、大阪の膝弱

2020年01月28日 20時48分38秒 | わたしと大阪

 先週末、大阪の実家に、母のご機嫌伺いと様子見のため、チラッと行ってきました。母の機嫌をよくするには、母が大好きなフリマに行けばよくて、弁天町の交通科学館跡でやっているフリマに、うちの実家の最寄りの駅で待ち合わせて、行ってみました。

 向こうに着くと、私はあまり用事はなくて、手持ちぶさたでしたので、母は「私はまだまだ見てるから、あんたはどこか遊びに行っておいで」と言うのです。

 「えっ、オカンは膝は大丈夫? ひとりで帰れる?」と心配したんですけど、「大丈夫!」ということでしたので、母を残して古本市に向かったんでしたね。

 そんな、私のつまらないことはどうでもいいんです。

 その少し前、大阪のナンバに向かっている時、お金持ちで時間がもったいない人なら、近鉄特急でサッと行くはずなんですけど、私はもちろんそうではないので、二時間かけて快速で大阪まで出ていきました。

 寝たり、本を読んだり、ボーッとしたりしながら、大和八木くらいまで来ました。ここからあと数十分でやっと大阪です。大和高田、五位堂、河内国分、布施と止まっていかなくてはなりませんでした。

 ふと、顔を上げると、小さな足がフワフワ浮いているのが見えました。お客はそれなりに混んでいて、立つスペースにある程度の空間はあるけれど、しっかりみんな立たされています。空気は少し圧迫感がありました。お天気はくもりでしたっけ。

 フワフワの足の子は、もちろん赤ちゃんみたいな子で、お母さんのお腹のところで抱えられていました。お母さんは、「ヨシヨシ」と言いつつ、お尻をトントンしていた。泣いてはいないけれど、いつでも泣き出せるくらいの、少し落ち着かない雰囲気でもあります。そりゃ、赤ちゃんにしてみれば、人がいっぱいで何だか窮屈だったでしょう。

 負ぶわれているから、赤ちゃんはいいけど、お母さんは大変かもしれないと、オッチャンの私は気を利かせて目の前のお母さんに席を譲ろうとしました。

 するとお母さんは、「このまま立ったままで、あやしている方がいいんです」とキッパリ言うのです。せっかく私としては頑張って立ち上がったのに、目の前のお母さんは、わりと涼しい目元の、広末涼子さんみたいな感じの人で、目でも私を押しとどめるのです。もう何も言えなくて、そのまま座ってしまいました。

 仕方がなくて、持ってきた本を取り出して、赤ちゃんを見たり、隣の女の人がお母さんに話しかけるのも見たり、そんなこんなで鶴橋駅までたどり着きました。私は上本町まで行くつもりだったので、そのまま座っていると、電車を降りる時、先ほどのお母さんから「ありがとうございました」と言われてしまいます。

 「え、私は、何もしていないし、ただ立ち上がろうとしたヒゲ面のチッチャイおっさんです。何もそんなことを言われることはしていない!」と言いたかったけど、言えなかった。

 彼女はさわやかな言葉と笑顔を残して去って行きました。おかげで、私は何か得したなという気分になれた。それから、母の待つ駅まで向かったんですけど、もう出だしから幸せな気分ではあったのです。



 その日の午後、古本市でいくつかの本を買い、実家にすぐに戻ればいいのに、スケベ心が言うのです。「おおさか東線っていのう、できたの知ってる? 乗ってみる?」とかなんとか。

 かくして、京橋から鴫野、そこで乗り換えて、新大阪行きに乗り、淀川を越えて、新大阪に到着、土産物売り場を冷やかし、何も買わないで、そのまま大阪に出て、環状線で帰ることにしました。

 福島、野田、西九条、弁天町、大正と、私の実家へはいくつかの駅を通らねばいけませんでした。

 野田の駅に着きました。私は、座るのに飽きて、扉の所に立っていました。見慣れた風景をボンヤリ見ていました。そうでした。おおさか東線というのは、昔は貨物に使われていたレールを乗客用に改良し、駅も作り、複線にもしていました。それが大阪市の東側を走っていました。大阪市の西側にも貨物のレールはあって、私が高校生のころまで、環状線にも貨物列車が走っていたと思うのです。

 だから、東線にも乗ったし、西側の貨物線は? 今は、紀勢線・関西空港線の特急に使われているよなと見ていました。野田駅に着いたら、そんな私のボンヤリした思いはフッと止まります。

 私の立っている扉の前に、車いすの男の人とその介添えの人が立っていました。

 「あれ、駅員さんはスロープを用意していないの?」

 市バスとか、地下鉄なら、ちゃんと連絡が届いて、何両目にスロープを用意しておいてね、というのがあるはずでした。でも、この駅には駅員さんがいませんでした。

 だったら、どうするの? 乗ってくるの? そりゃ、乗ろうと思ってホームにいるんだから、乗るよなあ。前輪は持ち上げて、電車に突っ込むことができました。でも、後輪はまだだし、そちらに体重はかかっているでしょう。それをどうして持ち上げるの?

 もう、私も参加するしかありませんでした。知らぬ間に体は動いて無言で引き上げていました。私は車いすの右側を担当しました。左側は? 通りかかった男の人がサッと持ち上げてくれて、どうにか車内に車いすは入りました。「ありがとうございます」も言ってもらえなかったけれど、当たり前のことを無言でしただけなので、今私がしたことも、ホントに私がしたのか、それとも勝手に持ち上がったのか、わからないくらいに一瞬でできてしまっていました。

 たぶん、私は当たり前のことをした。車いすの人は、人に話しかけられる人ではなかったみたいで、ボンヤリしていました。介添えの若い人は、車いすの押すところの取っ手が壊れたのを気にしているようでした。もう少し愛想がよければよかったんだけど……。

 しばらくしてたら、私の降りる駅についてしまい、当たり前に降りてしまった。けれども、サッと持ち上げたり、引き上げたりできる大阪の無言の協力が何だかうれしくて、都会の人の方が、淡々と人を助けることができるんじゃないの、と感心することしきりだったのです。



 さて、突然蕪村さんの俳句です。

  歩き歩き物おもふ春のゆくへかな (1769 蕪村さん53歳の作品)

 いろんなことを考えながら、あちらこちらを歩いている春の夕方です。別に春だけがものを思う季節ではないけど、たまたまいろいろ重なって、街の人々の気持ちに触れたような気がしました。

 そういう内容の句でした。私とあまりシンクロしてないかな。いいかなと思ったんだけど……。
 

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