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芭蕉さんと福島県の福島市あたりに来ています。いつも高速で素通りするか、それとも東北本線をとろとろ走るかしか、そういうことしかしてなくて、縁が薄いままの土地ですけど、いつかちゃんとこちらにも行ってみたいです。なかなかご縁がないんだもんな。
月の輪のわたしを越(こ)えて、瀬の上といふ宿(しゅく)に出(い)づ。佐藤庄司(さとうしょうじ)が旧跡(きゅうせき)は、左の山際(やまぎわ)一里半(いちりはん)ばかりにあり。
月の輪の渡しを越えて、瀬ノ上という宿場に出ました。佐藤庄司のゆかりの土地は、ここから山ぎわを一里半ばかり行ったところにあります。
芭蕉さん、あまりにあっさり書きすぎだけど、源平の頃の木曽義仲とか、義経さんとか、悲運の武将さんって、好きだったんですよね。だから、お墓も大津の義仲寺(ぎちゅうじ)に立てたくらいだから、お好きなのは知ってましたけど、義経さんの家来だった継信・忠信兄弟のお父さんの家があったあたり、そういう風に紹介されても、どれだけの人が感心してくれるかなあ。わざわざ訪ねる価値はあるんだろうか。
そりゃ、芭蕉さんは滅びたものたちが好きなのは知ってましたけど、久しぶりに読んでみると、ギャップがありますね。今はそれよりも自分たちの文明が滅びそうな気配なんですもん。いや、そういうことはないか、どこかよその国が人類を救ってくれるかな。
とにかく、日本は少しずつしぼんでいくのを選択するみたいですよ。
飯塚(いいづか)の里鯖野(さばの)と聞きて、尋(たず)ね尋ね行くに、丸山といふに尋(たず)ねあたる。これ、庄司が旧館(きゅうかん)なり。
飯塚の里、鯖野というところにそのゆかりの場所があるというので、あちらこちらで道を聞きながら行くと、丸山というところにたどり着いて、ここが庄司のゆかりの土地だというのです。
芭蕉さん、とうとう着いちゃいましたね。そこに何があるんです。お寺でもあるんだろうか。それともお城? お屋敷?
梺(ふもと)に大手(おおて)の跡など、人の教ゆるにまかせて泪(なみだ)を落(おと)し、またかたはらの古寺(ふるでら)に一家(いっけ)の石碑(せきひ)を残(のこ)す。
山の麓に屋敷の大手門などがあって、地元の人に教えられるまま、ここにかつて義経さんに従って京都から西国の果てまで戦い続け、そちらで亡くなってしまった二人の兄弟と、その出身の家の跡があったというけれど、その屋敷跡までたどり着けたこと、はるばるとそうした歴史の跡をたどろうと歩いてきた自分の旅を思い、涙を流したものでした。そばには古いお寺があって、佐藤家の人々の石碑が残っていました。
お屋敷とお寺と、これに神社でもあれば、古い大きな木もあればいうことなしなんだけど、それはなかったのかな。
私たちが、実際にそちらに行けたとして、芭蕉さんみたいに感動できるのか、私には自信がありません。なあんだつまらない、ただの空地かよとか、田舎の風景だなとか、ありふれた感想しか持てないかもしれません。
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中にも、二人の嫁(よめ)がしるし、まず哀(あわ)れなり。
その石碑のいくつかの中で、佐藤兄弟のお嫁さんたちの石碑が哀れで、あれこれと考えさせてくれる石塔ではあったのです。
女なれどもかひがひしき名の世に聞こえつるものかなと、袂(たもと)をぬらしぬ。堕涙(だるい)の石碑(せきひ)も遠(とお)きにあらず。
女ではあるけれど、夫に尽くした彼女たちの人生と名前が今にも伝わっているものかとまたぐっと来るものがありました。涙を落とさせる石碑はそんなに遠くではなくて、すぐそこにありました。
寺に入(い)りて茶(ちゃ)を乞(こ)へば、ここに義経(よしつね)の太刀(たち)、弁慶(べんけい)が笈(おい)をとどめて什物(じゅうもつ)とす。
すぐそばのお寺に入り、お茶を頂くことにしました。ここでは義経さんの太刀と弁慶さんの笈が残されていて、宝物となっていました。あの東国へ逃げていくときの修験者の笈でしたね。
笈(おい)も太刀(たち)も 五月(さつき)にかざれ 帋幟(かみのぼり)
笈も太刀も、五月になったら飾りなさい。五月は男の子のお祭りの季節で、紙のぼりも上げましょう。
五月(さつき)朔日(ついたち)のことなり。
ここを訪れたのは、五月の一日のことでした。
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