甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

先達はあらまほしき……

2018年02月03日 07時04分34秒 | つれづれな人々

 徒然草のごく最初の段階で、仁和寺のお坊さんたちのお話が三つ出てきます。よほど仁和寺のことを語りたかったのか、京都の西の郊外に住んだこともある兼好さんだったから、たまたまおかしな話を見聞きするチャンスがあったからなのか、何だか不思議です。

 お話に取り上げられるお坊さんというのは、たいていが普通の人間たちとは違う、突拍子もないことをする人たちとして登場します。

 まあ、それくらい実際に出会うお坊さんというのはお澄ましして、いつも平気な顔をして、淡々と世の中を論じられる人が多いし、お説教をたまに聞かされる時があると、ホホウと感心するときもありますけど、何だか軽薄なところのある人だなとお布施がもったいなくなることもありました。

 お坊さんといえども、そんなに私たちと違う人生を歩んでいるわけではないようです。ただお経が読めて、声は練り上げている。あのホーミーに似た、不思議なうなり声は、努力して身につけたものなのだと思います。技術として持っておられる。そういう人は普段の生活でも、もう練り上げた声で生活しておられて、「ああ、すごい。お経の声だ」と感心したりするのです。私は声がひどいから、特にうらやましい。

 そんなお坊さんなのに、有名な失敗をしでかしてしまいます。

 仁和寺(にんなじ)にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)よりまうでけり。

 仁和寺のお坊さんの、とある方が、長年石清水八幡宮にお参りしたいと思っておられたそうです。けれどもなかなかその機会に恵まれず、自分でも残念に思っておられて、今日こそはという強い思いで、ただ一人でお参りに行かれました。

 どうしてお伴の人と一緒というわけにはいかなかったのかなあ。そこがミソですね。わざとオチをつけるため、お笑いエピソードを作るため、そういうおとぼけをしたのではないと思うんですけど……。

 極楽寺・高良(こうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
 
 やっとの思いで石清水八幡宮に着いてみると、山の上の八幡宮さんのふもとにいくつかのお寺や神社があって、極楽寺と高良神社をお参りして、ああ、これが石清水八幡宮なのだと満足して帰って来られたということです。



 さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果たし侍(はべ)りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。

 土産話を他のお坊さんたちにされていたところ、「長年の夢であった、石清水八幡宮さんへお参りすることができました。聞かせてもらっていた以上に、尊くありがたい神様でいらっしゃいました。

 そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」と言ひける。

 それにしても、お参りされる人たちが、次から次とお山の上へ行かれたのは、何かお山の上にあったんでしょうね。少し興味をひかれましたけれども、岩清水さんにお参りすることが私の大目的ではあったので、お山の方へは参りませんでした」と語られたそうです。

 すこしのことにも、先達(せんだつ)はあらまほしきことなり。

 どんな些細なことでも、案内をしてくれる人(やガイドみたいなもの)はあった方がよいようです。



 そんな滑稽譚でした。

 高校の古典の先生は、どんなまとめをされたのかなあ。思い出せないです。

 ただ、私は、それもそうだけれど、確かに案内がないと、とんでもない失敗もするけれど、それはその人の人生・運命であって、本人さえ満足していれば、それはそれでよいのではないか、という気持ちもありました。

 外国の人が、日本のフジヤマに憧れて、夏に来てみたら、雪が積もってなかったとか、折角来たけれど、滞在中ずっとガスや雲がかかって見えなかったとか、そういうことって、あると思います。見えればそれはいい。でも、折角そこまで行ったのに、見えなかったり、本殿をすっ飛ばしたりすることって、あるかもしれない。



 大阪城のすぐそばまで来ているのに、当然パスすることだってあるのです。どうせ、私たちは満足したいだけであって、その満足もいい加減なものです。深い感動と口では言うものの、どれくらいのものなのか、それはわからないのです。

 もう私は一生、大阪城には行かないし、たぶん、名古屋城にも行かない。二時間と少しで行けるのに、木造で国宝を再現すると市長さんは言っておられますが、それが実現したとしても、あまり行きたくはないですね。

 本人が自分の強い気持ちで、目的を達成しようと行動したことが尊い気がします。

 アメリカで肩を壊した松坂くんが、日本でもう一度投げたいと、ソフトバンクでは三年間投げる機会もなくて大儲けして、それで金銭的には満足しただろうけど、野球選手としては燃え尽きていないと、相変わらずの手投げで中日に入ったといいます。

 キャンプでどれだけ変われるか、それはわからないけど、そんなには投げられない気がします。前にも書きましたが、松坂くんに完封されるなら、阪神ファンとしても、コンヤローとは思いますが、まあ、いいかとも思うでしょう。

 私たちは、意志のある人の行動には、自然と感謝したり、尊いものを見つけてしまう生き物なのです。孤軍奮闘(しているように見えた)の栃ノ心さんも、実はたくさんの人に支えられ、みんなのおかげで優勝した。春日野部屋所属の床山さんだって生涯初めての優勝力士の髪結いをしたとして記事になるくらい、みんながだれかの意志を支えるものなのだ。



 だから、仁和寺の残念なお坊さんのまわりの人たちも、後から、「……さま、行かれたところは末社・末寺でありまして、石清水八幡宮さんではありません。本当に、残念なことをなさいましたね」とは言えないでしょう。

 もう黙って聞いて、それはそれでよかったのかもしれないな。ご本人が満足されているのだから、他人がどうこういうものではないのだ、みんなそう思ったでしょう。

 本来であれば、そのままお寺内部で消えていく話でした。それをキャッチした兼好さんがすごいのだと思います。おかげで、何だか滑稽なことをするお坊さんたちの集まりみたいに見られてしまったけれど、人間のすることなんて、大同小異・五十歩百歩・目くそ耳くそ(鼻くそ?)なのです。

 みんな同じような失敗をしている。

 要は、本人がどうかです。このお坊さんに関しては、もう誰に何と言われようと、非難されたとしても、「ああ、そうですか、知らんかったなあ。ハッハッハー」で終わりです。何ともない。

 案内は、そりゃ、ある方がいいけど、別になくてもかまわない。自分の行きたいところに行く。そうしたら、それで満足するのが人間なのだと思いたいです。

 わがままや、インスタ映えなんて必要ありません。小さな自分の世界で自足しなければ!



★ そんなことはとっくの承知であって、私もそう思うよ、という兼好さんの声が聞こえてきました。

 でも、あえて結語をそうしておいて、あなたはどう思う? という問題を投げかけたいんだよ。たいていの人は、私の提案に納得して、大事な所へ行くには、一生で一度行くか行かないかという所には、ガイドを求めるでしょう。

 そして、何人かの人は、いや、そんなの必要ないよ。私は私の好きな所を歩き、見られなかったものは仕方がない、そういう運命として諦めるし、私が見た見ないなんて、つまらないことであって、実際に見たとして、それはささやかな経験なのさ。

 大切なのは、その人の内部がどれだけ高められたか、どれだけ生きる元気をもらえたかなのだよ。そういう思いにいくら他人が水を差しても、びくともしない自分でいたいじゃないか、そういう受け止めもありだと思うよ。

 と、言っておられる気もします。わざと、わざとらしい教訓を書き、私たちを試しておられるんでしょう。少しイジワルなんですよね。(2018.2.4)






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