
神様って、どこにおられるのか、そんなのは全くわかりません。
ないと言えばないし、あると思えばある、……かもしれない。神様を語ることって、人が生きていく上である意味大事な作業だと私は思うのです。
確か数年前に、伊勢神宮で遷宮ということで、神様が奥の社殿から手前の社殿に引っ越しされた儀式がありました。夜遅く、たくさんの神官たちに囲まれて、布にさえぎられたまま神様は移動されていきました。私もチラッと見させてもらいました。「ああいうふうにして神様は移動されるんだ」と感心した記憶があります。たぶん、初めて見せてもらいました。
テレビでその様子を中継するのは失礼ではないのか? と不安にもなりますが、すでに私たちは見てしまってますから、絶対に禁止だったらテレビカメラも禁止しなくてはならないし、すでに中継はされているのだから、布を見ることだけは許されていたのでしょう。
それにテレビに中継されたからといって、目くじら立てる神様ではありません。わりと鷹揚なところもあるみたいでした。
あの布の向こうに、神様はおられたのか? 神格化されているので、おられるということになっていますが、私としてはただの空気を運んでいってほしいと思うのです。鏡とか、石ころとか、刀とか、きれいな玉とか、そんなものであってほしくないのです。
できることなら、日本の神様は実体のない、ご神体という形を持たない存在であってほしいなあ、という個人的な希望を持っています。

本来、日本の神様は、小さな体を持たない存在であったと思います。巨大な山塊、荒れ狂う大河、底知れない湖、お化けみたいな木、林の中を通り過ぎてきた光など、人間のスケールではとらえきれない存在ではなかったか、と思うのです。
大宇宙から微に入り細に入り神様は現れます。この世のすべての存在が神なのだということも成立します。だから、砂粒一つ、汚いトイレ、一瞬吹いた風(空気の移動)、すべてが神様なのだということもあってもいい。
それなのに、日本という地域の歴史の中で、信仰の対象は実体を持たなくてはならなくなり、神域を作り、囲い込みをして、それらしい雰囲気づくり・演出も施し、実体があるような語られ方もしてきました。
仏教とも仲良くなり、権現としてお姿を現されたり、霊験を示されたり、いろんな形で人々と接触されてきました。時には人間や動物などの動くものになっていたりしました。
できれば、そんな下世話なことはなさらずに、徹底的に高踏的で、庶民など相手にしない荒ぶる神であってほしかったのに、いつの間にか、人々から親しまれ、人間レベルにまで連れてこさせられている。

神様は、そんな存在ではなかったと思うのです。意地悪で、恐ろしくて、人間の言うことなど聞き入れず、好き勝手をされていて、時々何かのお恵みをくださる(ような)存在であったでしょうし、今もきっとそうだと思います。
今は、人間たちが勝手に自分のいいように解釈して、勝手にありがたがっているだけです。すべて私たちのカン違いの上で神様信仰は成立しているようなところがあります。
神様は、本来は何もない存在であった。形を持たない。そして、人々のことなんか考えない、大きくて、時には小さくて、たくさんのようで一つのようで、そこにいるようでいないような、漠然とした形のない存在です。

私は、先日、万博公園の中にある民族学博物館に行ってきました。
そこでたくさんの神様を模したもの、神様に来ていただくための物体、神様が仮におられたと人間が勝手に信じた形あるものものなどを見てきました。
人間は、いろんな形で神様を自分たちに近づけようと何千年も努力し、時には神様になったつもりでお芝居や舞をしたりしました。すべて神様をたたえるための行為ではありました。
それらが世界中から一つの建物の展示室に次から次と並べられていた。
何だか恐ろしいような、ありがたいような、不思議な気分で見ていました。見るだけでもものすごく時間はかかるし、一つ一つが人々の努力と、人々の親愛の情を感じさせるものでした。人々は何とかして神様に近づきたいと努力したんだろうと、その気持ちを何となく感じることができました。
でも、イスラムの人ではありませんが、神様は形のないものであり、それを物質化させる努力は、わかりやすいけど、間違っていると私なんかは思いました。
みんなは神様を形にしたい。けれどもそれは間違っている。
さて、日本は? というと、日本の神社ではご神体を無理矢理作ろうとした時もあったようだけれど、本来は形を持たないので、そのオマージュがいろんな形で行われていたのであり、形や物にはしようとしなかった、それが日本の神様でした。
それが本質であり、本来の道であった、時々道を踏み外したことはあったけれど、伊勢神宮の遷宮のような、実体のないものをあると「信じる」ことで信仰を続けていこうとする、この在り方がなかなか日本らしい信仰の形でした。きっとイスラムの方にも認めてもらえる、正しい神様の在り方を、東洋の片隅でしっかり守っていると評価してもらえるんじゃないかな。
あまり神様を語るのは、控えなくてはいけません。軽々しく語るものではないのです。でも、いつもどこかにいてくださるので、忘れてもいけないし、心の片隅にその存在を置かせてもらわなくてはならない。
難しいです。また明日、民族学博物館の写真を貼り付けてみます!