甘い生活 since2013

俳句や短歌などを書きます! 詩が書けたらいいんですけど……。

写真や絵などを貼り付けて、二次元の旅をしています。

80万人と500人と子どもたち

2023年03月01日 21時08分21秒 | 私たちの社会・世界

 埼玉の中学校に何者か、若い男が刃物を持って暴れていた! 60代の教員と他の教員が協力してこの若い男を取り押さえ、17歳の高校生であることが判明する。どうにか現行犯で止めることができた。ただ、つかまえられる時に抵抗したようで、60代の教員が何か所か刺されたそうです。大きなケガでなければいいけれど、その先生もキャリアの最終盤に来て、高校生に傷つけられたなんて、先生としてやるせないものを感じたことでしょう。

 目の前の生徒たちを助けなければならないので、避難はさせた。けれども、男は何かターゲットを求めている雰囲気ではあるので、それを抑え込むことには成功したものの、説得や話し合いの通じない、厳しい状況でやむを得ずとり押さえることにはなった。そして、若い男(高校生)の深い闇も垣間見てしまうことになった。先生だって大きなトラウマを受けたはずです。

 ニュースでは、男(高校生)は、「誰でもいいから殺したかった」と述べたということですし、最近埼玉県で起こっていた猫のバラバラ遺体事件のことも自分であると認めるようなことを言っているようです。



 ネコ事件のニュースを聞いてから、いつか吹き出すかもしれないと私は思っていました。でも、それがかなり早い時期に直接的な行動で事件は起きてしまいました。もう少し早く猫事件から犯人を割り出せていたらとは思うものの、それには間に合あわなかったでしようし、猫のバラバラ事件では警察の人たちもイマイチ実態をつかめていなかったのかもしれないです。

 この若い男の衝動性というのは、裏にも表にもなり得るものかもしれなくて、他人を傷つけるのではなくて、自分に目が向けられていたら、自分を衝動的にいなくさせたのかもしれない。

 自分が死ぬのはイヤだし、誰か道連れが欲しいし、誰かが死ぬ分には構わない。いっそのこと自分を死刑にしてくれるなら、死刑でもいい。などという極端な話もこういう事件の時に聞いたりすることもありましたね。

 みんな漠然とした死への恐怖は持っているのだけれど、何もかもこの世の苦しみから解放される死というものは、とてもシンプルな結論で、それに支配される若者もいるのかもしれない。

 でも、実際に死んでみたら、それはものすごく無ではあるし、何もかも苦しみもなくなるけれど、今までの自分の生きていた苦しみを感じる実感も失われ、何も感じない、何も言えない、誰ともつながることのできない、完全な無となるなんて、想像することさえできないでしょう。

 苦しみは確かにない。でも、それ以外のものも一切なくなるのです。自分そのものも消えてしまうし、自分を認めてくれた人間関係もすべて消える。

 それをたまたま選んでしまった若者が、去年はこの国では500人を越えたということでした。(これは昨日のニュースでした)

 文科省のN岡某大臣は、「話を聞いてくれる大人がいるし、そういう人たちに話してみなさい」と呼びかけていた。それは昨日のニュースだったか。

 もちろん、自分は(大臣ですから、そんなのは下のものの仕事ですから)そんな若い子どもたちの話を聞く立場にはないし、どこかにそういうのが仕事の、下請けする人たちがいるだろうから、そういう人間を利用しなさい、という方便を伝えたまでのことでした。


 果たして、どこに子どもたちの話を聞く大人はいるのでしようか。相談窓口は開設されている。けれども、そこに話を聞いてくれる人は本当にいるんだろうか。どんな顔をして私の話を聞いてくれるのか。仕事だから聞いてくれるのか。それとも、研究対象なのか。ぼんやりとした存在です。そんな見えない誰かしか子どもたちを救う手立てはないのか……。

 子どもたち自身が目の前に見ている大人たちは、日々の生活に追われてアタフタしているというのに、どうしてこの優雅な人たち(ぼんやりとして見えない、おかねで雇われている相談員という人たち)は、本当に私たちの話を聞くのか。聞くだけなのか。困ったら助けに来てくれるのか。

 そもそも、私たちの悩みって、元はそんなに深刻なものではなかった。それがどんどん悪い方向、追い込まれる方向、自分で自分の先を見えなくする方向、そんな形で、どんどん自分で苦しめてきただけ、そういう気もするんだ。でも、それもわからなくなってきている。

 それくらいに、SNSがあろうが、スマホさえあれば、だいたい友だちのことは見えたりもする。けれど、何だか孤独だし、本当のことが話せなくなってしまったんだよ。

 そういう自分が、誰に心を開いたらいいんだよ。自分にさえ心を開けていけないのに、誰にも話せないし、孤独なんだよ。逃げ道がないんだよ。

 何かすると、大人は「私に相談しなさい」「いつでも話は聞くよ」というが、いざという時には逃げ出しているじゃないか。誰もまともに向き合ってないよ。

 いろんな問題にまともに向き合えていない大人たちに、誰が頼るんだろう。いや、大人は建前で言ってるだけで、困ったことはそんなに大きなことではない。まわりのみんなに話してみなさい、そういう結論になるのか、それとも極端に警察に相談しなさい、となるんだろうか。

 みんな、どいつもこいつも、たらい回しなんだよ。……そんな叫びが聞こえてきそうです。


 私は、とても暗い気持ちになっています。子どもたちは誰にも話せない日々が続くでしょう。大人たちは余裕を失っています。

 子どもたち同士も、残念ながら個々に孤独を抱え、それを何とかやり過ごそうとみんな努力している。家族が支えてくれる場合もあるでしょう。家族にも話せないことだってあるのは当たり前です。できれば、それを聞いてくれる仲間がいてほしいけれど、それを求めるのは酷です。

 子どもたちも、ものすごく真面目で、自活の道を歩むように有形無形のプレッシャーを抱えている。みんなお利口さん・いい子になるように社会の要請の流れに沿って生きている。あまりそれをおかしいとも言えないし、みんな一面素直な感じです。

 昔みたいに、はみ出したり、暴れん坊だったり、グータラだったり(してもいいのに!)することを許されていないのです。



 私は、こんな社会に生まれないことにした!(芥川龍之介の『河童』にもそういうのがありましたね)

 そう決めた赤ちゃんたちが何十万人もいて、日本では80万人しか赤ちゃんは生まれなくなりました。みんな、こんな世の中はイヤだと決めてしまっている。

 それでも、まだ80万人の赤ちゃんたちが希望を胸にして生まれてはいるけれど、今の現状で行けば、もっともっと赤ちゃんたちはこの国を避けていくことでしょう。

 それは、今の大人たちを見たら、すぐに判断できることです。誰も責任を持たないし、思いつきと口先だけで生きていて、自らの利益のことしか考えていないのです。

 他人のことなんか、金になるかどうか、その基準でしか見ていない。考えてみれば恐ろしいことです。誰かと一緒にいても、常に私たちは値踏みされてるだなんて!

 ああ、赤ちゃんたち、この国にはやって来ないのかな。私は、身のまわりの人たちに、少しでもダラッとした気分を届けるため、ダラダラ生きていきます。

 「なんて、あなたはだらしない!」と言われたら、「ハイ、すみません。また、頑張ります。少しだけのんびりしたいものですから。」……そう言い訳していきましよう。

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